映画 「ヒミズ」 園子温監督作

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評価★★★

 原作は、ギャグ漫画「稲中卓球部」で著名な古谷実の漫画「ヒミズ」。ヒミズとはモグラの仲間、ひっそり目立たず、普通に生きていたいという主人公の気持ちから名付けられた。
 
 舞台は震災直後の茨城県。主人公の男子中学生、住田祐一(染谷将太)は、池の湖畔にぽつんと立つ貸しボート屋の息子で、母親と二人住んでいる。決して風光明媚とは言えない小さな池にボートを借りにくるのは薄汚れた釣り客か、時間を持て余したカップルくらい。ボート屋の周囲にはホームレスたちが居を構え、周囲の景観を更に薄汚れたものにしている。当然ボート屋が儲かるわけがなく、母と子の生活はカスカスだ。義務教育とはいえ、学校に通えているのが不思議なくらい。そんな主人公スミダに友達と言えるような同級生はおらず、ボート屋のそばのブルーシートのホームレスが友人の役目を果たしている。スミダに父親はいるが、金にだらしのないチンピラ風の男で、家を出て行ったものの、しょっちゅう金がなくなってボート屋に小金をせびりにくる。母はそのたびに逃げ出し、父親と対峙するのはスミダである。父親は実の息子スミダに向かって会うたびに「おめえはいらねんだよ、死んでくれ。保険金が入るから」とのたまい、殴る蹴るの暴力をふるう。母親は母親で父親と変わらぬ人非人のクズぶりを発揮、息子のいる家に間男を連れ込んできても平気なのだ。スミダはそうした親子関係、生活が今すぐにどうにかなるわけではない所与のものとして冷静に受け止めている。学校では担任教師が「誰でも一つだけの花なんだ。夢を持て」と先生にありがちの常套句で生徒に語りかけてくるが、そうした先生の言葉にスミダは「夢を持たないと駄目なのか」と無表情に反論し、オレは中学卒業したらボート屋で働き、つつましくも大過なく平和に生きていく喜びを持っていると主張する。もちろん虚勢である(スミダはそう主張しつつも、自己承認の問題に悩み、絶望的な自分の人生から這い出したい希望の裏返しとして主張しているに過ぎない)。そんなスミダの本音は知らずとも、少なくとも他の中学生とは一風変わった考え方をし、孤独に人生を生きようとするスミダの姿に恋をする同級生の女の子、茶沢さんこと茶沢景子(二階堂ふみ)。彼女はスミダに好意を寄せるが、スミダは当然振り払おうとする。それでも彼女は元気よく明朗にスミダに付いていこうとする。スミダに「付いてくるな、帰れ」と主人公に何度も否定されても、まるでストーカーのように彼をつきまとい、しつこ過ぎてスミダから殴られても殴り返すほどの向こうっ気の強さで追いかけていく。ただ、そんなそんな暗澹たる生活が続く中、父親が暴力団から多額の借金をしていることが原因で、スミダと茶沢さんの関係はホームレスを巻き込む形で、狂気の満ちた展開に発展していく。

 正直いって、メディアでの高い評価ほどに面白いとは思わなかった。もちろん、園子温の作品は、前作「恋の罪」もそうだったが、近年のテレビドラマに象徴される練り込まれていない筋立て、マーケティングが先行した飽き飽きするようなキャスティングばかりの邦画に比べると暴力やエロティシズムに潜む狂気、その背景となる社会風景をしっかり認識し、極端とも言えるほどの人間の愛憎劇で表現できる才能を見せてくれる。園子温の映画は他の邦画に比べれば異色で、秀逸であるのは間違いない。でもやっぱり深みがない。最初、震災直後の被災地の悲惨な情景を映し込むシーンから始まるが、ストーリーに被災地はほとんど関係がない。暴力シーンや台詞は過激だが、それと主人公の自己承認問題を結びつけるプロットがベタ(普通)過ぎる。ホームレスたちの演技は過剰であり、園子温監督の新妻である元グラビアアイドルの女優、神楽坂恵はまったく不要である。終盤、なんだか既視感があるなーと思ったら、ふと、これはドストエフスキー罪と罰」そのもの、主人公スミダはラスコーリニコフで彼女はソーニャであると気付いた頃からの展開は良くなった(後で調べたけど、原作者の古谷実自身が「罪と罰」を意識していたそうだ)が、それまではずっと何が面白いんだろうと感じ続けていた。
 
 ただし、主人公の二人を演じた、染谷将太二階堂ふみは、とてもみずみずしく、かつ自然で、とても良かった。二人とも2011年のベネチア国際映画祭で新人俳優賞であるマルチェロマストロヤンニ賞を受けている。