東浩紀編集「思想地図β2ー震災以後」 コンテクチュア社刊 


思想地図β vol.2思想地図β vol.2
(2011/09/01)
東浩紀津田大介

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評価★★★★

 評論家で小説家の東浩紀(私と同学年)が編集長をつとめる雑誌「思想地図β」の第2号。今回は東日本大震災発生を受けてその編集スタイルを第1号のそれとは全面的に変更している。それまでは「ゼロ年代の批評」とされる、いわゆるアニメなどのポップカルチャー・ネットサービス批評空間を支える編集スタイルで、実際、第1号ではショッピングモーライゼーションとかいう、消費の平等による中産階級の連帯(ショッピングモールがそれを可能にする)というような評論などを展開していた。しかし今回、編集長たる東はそれが間違いだったと吐露する。震災によって、中産階級の連帯が正しいとしても無力だったことに気付いたという。金持ちと貧乏人が連帯できるといっても金持ちは日本を捨てることができるし、人間は平等ではなくバラバラで最初から東京都民と福島県民は明らかに違う平野に立っていたと。そんなこと震災前からそれが分かっていたのに新しい連帯に幻想を抱き続けてきたと。とはいえ、東はバラバラな状態が続き、それが広がっていくことがいいとも思っていない。結局は連帯を求めていかないとならない。そうした思いを東は巻頭で直情的に語りかける。私も同感だ。第1号のショッピングモーライゼーションなんてまるで意味がないことが見えていた。田舎出身で限界集落や過疎地を観ている私からすれば、都会にいる評論家が見つけたカッコのいいネタにすぎない。

 で、この思想地図β2、津田大介とか佐々木俊尚とか竹熊健太郎とか若者に人気の著名どころが多数寄稿してて、贅沢な仕上がりになっている。
 特に面白かったのは、3つ。一つは東と猪瀬直樹村上隆の鼎談。ここはさすがに猪瀬直樹の独壇場で、戦後の日本人がいかに虚飾に満ちているかを力説する。戦前までの日本人は、天災(など様々なリスク)の多いこの国から出られないことをわきまえ、そこから刹那的な美や文化や思想につなげていったが、戦後はリスクを外(=米国)に任せ、自らの国を「ディズニーランド化」(猪瀬の造語w)してしまったと。結果、ディズニーランドの外にある現実をリアルに想像できなくなった。三島由紀夫が「戦後の日常は虚偽の日常だ」と言ったのは正しいと語る。東や村上は震災を経てそこに気づいたものの、二人とももう戦後それを続けてきた日本人が変わることは無理だという。東は原発問題はその一つで、原発は必要かも知れないが今の日本人には到底管理できないとする。東京都副知事の猪瀬は、その問題も沖縄基地問題と通底する「東京の人が人任せにしてきた結果」であり、リアルな想像力、リスクを抱えて生きていくことが抜け落ちていたためだとする。大衆文学にもそれが表れており、村上春樹が流行してきたのも日本人が【家長的価値観】を捨てていつまでも息子であることを選んだためだとする。戦後の日本人は、森鴎外的な家長文学を捨て、家長になれない主人公ばかりの夏目漱石を嗜好し、その流れは太宰治らにつながっていく。柄谷行人浅田彰といった評論家もその流れにあると。ただし猪瀬は、「でも日本人なら、きっとそれを乗り越えられる」と語る。文学も政治もリスクに対して責任ある主体が存在するフレームに変え、現実を乗り越える。そしてそれを導くのが政治で、思想であると強調する。結局、(家長のいない曖昧な)既得権益からの打破が必要で、その権益は政治家が持っているのではなく、やはり官僚を中心としたフレームに存在し、それを打破していこうと語る。

 さて、次に面白かったのが、鼎談における猪瀬の意見とは対をなすような考えを述べた気鋭の社会学者、鈴木謙介。東らとのディスカッションで鈴木は、もはや家長的な決断は人を傷つけるし、もうそうした決断を好まない時代にになっていることを踏まえ、東のいうゼロ年代評論の底が割れたという意見は単にゼロ年代批評が実務主義すぎてそれだけは足りなかっただけだと、ゼロ年代評論を擁護しようとしている。それもそうであり、猪瀬やそれに同調する東の結論は、宇野常寛風に言えば「ビックブラザー」的で、マッチョリズムっぽいのだ。
 
 最後に佐々木俊尚の震災復興論。正直、これがいちばん良かったかな。実に示唆的。特にいいのは論文の半ばにある、グローバル化が進む中、製造業でもすでに最終消費材はプラットフォーム化していくという話。例えば、テレビ受像機は今や単なる番組の【土管】ではなく、ネット機能や他の情報家電機能を結びつけ、人々のSNS的交流の機能にも入り込む媒体になってきており、今後もそうなっていくはずだという。そうなると、必要なのは工場ではなく設計思想、デザイン思想であると。自動車だっていずれそうなっていく。私もそう思うし、日本はこのまま単なるモノづくり立国でいいのか、プラットフォーム化した総合産業としてやっていけるか心配になる。プラットフォームで動く単なるモジュール(部品)企業でしかなくなるかも知れない。ただし、プラットフォームの上で活躍するモジュール企業は思想があれば、自らプラットフォームになるチャンス、つまり入れ替え可能性をもつという。そうした時代には、政府はいわばインキュベーターでいい。復興に際しても行政はあくまで復興のインキュベーターであるべきで、復興の主体は民間に任せていくべきだとする。例えば、三陸の漁港ならば、大規模化が進められそうなところは大規模化を進める手助けをし、小規模を守りたい漁港はそこの民意に任せようと。500キロもある海岸線ではそうやるしかないという。佐々木俊尚に関しては、「ネットがあればオフィスはいらない」「キュレーションの時代」を読んだが、読後感は一緒だ。現実における新しい潮流を拾い、統合させていずれ迎えるだろう新しい社会像を提示する。彼はもはやジャーナリストを超え、予言者じゃないかw。