「津波と原発」  佐野眞一著


津波と原発津波と原発
(2011/06/17)
佐野 眞一

商品詳細を見る

評価★★★

 ノンフィクションの巨匠、佐野眞一の最新作。著者の作品はエッセイ等をのぞいてダイエー創業者中内功の実像に迫った長編しか読んだことはないが、取材への長い時間と膨大なエネルギーを費やして完成された同作品は昭和に生きてきた人すべてにお勧めできる大作であった。同じく物書きの端くれとして取材を生業にする私にとって、彼の取材力は自分のそれと比較して自分の能力の無さに諦観してしまうほどの凄みがある。ただ、そんな彼も自身のよわいには勝てず、昨2010年に胸を開く大手術をしている。でも、著者は1995年の阪神大震災、97年の東海村臨界事故、2001年の同時多発テロと、災害や大事故の取材してきた経験をもち、原発の父とされる正力松太郎に関するノンフィクション(「巨怪伝」)、東電に関する著書(「東電OL殺人事件」)も書いている。「自分なら説得力のあるルポがかけるだろう」。そういう思いから本作品に取り組んだという。

 著者は、東日本大震災のあった3月11日の一週間後、3月18日に庄内空港から山形を経て、すぐ津波被害が甚大であった気仙沼に入っている。元新宿ゴールデン街のオカマバー店主を探して出逢うなどの、正直どうでもいい話はご愛嬌としてww、やはり著者は参考になる事実をたくさん掘り起こしてくれる。そもそも福島の浜通りとは小名浜、いわきなど太平洋沿いの市町村のことを言い、福島市郡山市などを中通りと呼び、奥羽山脈を挟んで更に内陸の会津と区別することも私は知らなかった。中通り会津に比べて貧しい浜通りにある福島原発は、もともと陸軍の飛行場があったところに建てられたもので、塩分濃度が高いために稲が育ちにくく、飛行場の後は塩田として活用され、国土計画が製塩事業を行っていたという。原発推進のための電源三法交付金が町を潤したため、現地に赴くと、普通の田園風景の中で町役場や公民館、図書館といった行政機関や公共施設の建物ばかりが目立つほど立派だという。
 
 さて、その原発、著者が過去の力作「巨怪伝」の対象とした読売ジャイアンツの産みの親、正力松太郎が日本における産業振興の旗振り役であった。元警視庁官僚の正力松太郎は、退官後に読売新聞に入り、当時わずか3万部の新聞を大新聞に育て上げた(一つの新聞の中にラジオ欄や科学欄をもうけ、ヌードを載せ、第一面から広告外してニュースを載せ、報知新聞を買収して一気に170万部にしたという。その後も婦人欄、地域版をつくり、囲碁・将棋を載せる大衆化路線をすすめ、死後のいま、公称1200万部である)。1955年に衆議院議員に当選し、すぐに初代の原子力委員長に就任。アメリカが原子力発電に成功したというニュースを聞いた日本人科学者によって1947年頃に独自研究が始まっていたとされる原子力エネルギーに着目する。1953年、米国アイゼンハワー大統領が有名な「アトム・フォー・ピース」演説を行うと(でも1955年にビキニ環礁で水爆実験事故を起こす)、原爆の恐ろしさ(=パワー)を知悉し同時にエネルギー安全保障上でリスクを抱えて太平洋戦争に引きづり込まれた意識をトラウマにもつ日本政府も演説に触発され、そこに正力の比類なき政治力が加わることで、急速に実用化へ進み始めた。ちなみに昭和天皇も1955年、1957年と二度、原子炉(東京国際見本市に出展)を視察しているらしい。「原子力推進で経済発展を」と訴えることで支持を得た正力は、社会党の主張する横須賀、中曽根の推す高崎ではなく、広大な土地を持つ東海村に1957年、日本初の原子炉となる英国コルダーホール製原子炉を導入、日本における原子力の父と称されるようになる。こうして始まった日本の原子力発電、高度成長にともなうエネルギー不足の解決策として経済成長に大きな貢献を果たす。ただし一方で、今につながる原子力村の問題も生じ始める。問題の契機はやはり1974年、田中角栄幹事長の肝いりで立法した電源三法で、これにより原発立地地域に莫大な交付金が落ちるようにしたことであろう。

 結びの方にある、「フクシマ論」の著者、東大大学院の開沼博さんとの対談が面白かった。開沼氏によれば「原発に炭鉱音頭のような唄がないのは、うしろめたさがあるから。誇れる仕事ではなかったから」という。彼もやはり電源三法を諸悪の根源的に捉えており、「交付金は運転開始から5年まで正規に支払われるが、6年目から減額される」ため、どうしても新規建設が自己命題化するという。あと対談で、大学の研究機関にも実験炉があることを改めて知った。ただ、立教大、武蔵工大(東京都大)の実験炉はすでに廃炉東海村にある東大の実験炉も廃炉予定で、残るのは近畿大学東大阪)だけであるらしい。