映画 「見えないほどの遠くの空を」 榎本憲男監督

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評価★★★★


 ツイッター上で存在を知り、渋谷に映画論の講義を聴きに行ったこともあるシナリオライター、榎本憲男さんの初監督作品。有名な俳優もおらずロケ場所も少なく、登場人物の会話を軸にした低予算の自主製作映画で、予算はびっくりするなかれ、300万円ほどらしい。もちろん、学生が仕上げたような自分探し系のB級作品ではない。劇場支配人をつとめた後、脚本家の荒井晴彦氏に師事、更にはプロデューサーなど映画に係わる様々な仕事を経験し、知識と人脈を培ってきた榎本さんだから、仲間が仲間を呼び、総額300万円に抑えられたのだ。そもそも同氏は、宮台真司東浩紀、チャーリーなどの社会学書を読んで現代社会も論じ、暇なときはロードバイクで疾走する、私からいえば、ネスカフェCMで言うような「違いの分かる」男であるw。かといってこれから書くことは、けっして敬意を抱く対象ゆえのポジショントークではない。

 舞台は東京。主人公の高橋賢(森岡龍)は大学生で、大学の映画研究会の4年生として最後にとる卒業制作の映画の監督を務めており、重要なラストシーンの撮影に入っている。しかしそのラストシーンは、セリフを気に入らない女優役のヒロイン、莉沙(岡本奈月)によって勝手に変えられてしまい、そのまま雨が降り始めて撮影は中止、そしてヒロインは交通事故で不慮の死を遂げてしまう。映画は未完のまま、主人公らは卒業することになる。
一年後、小さな映像制作会社の職を得た賢は、死んだ莉沙にそっくりな女を街で見かける。追いかけてみると彼女は莉沙の双子の妹だという。学生時代に最後のシーンだけ撮り残した映画を完成させたい賢は、映画に出演してくれるよう懇願。妹ははじめ渋ったものの、賢の情熱にほだされる形で出演に同意、賢は研究会の仲間を再び呼び集めて妹と顔合わせしようと試みる。ここからのあらすじはネタバレが一気にひどなるので書かない。

 「ここはクソだ、ここは腐ってる。ここには未来がない」。映画の冒頭はこんな男性のセリフに始まる。閉塞感の強い現代社会において、このセリフは若者を中心とする多くの人が感じていることだろう(もちろん昔だって若者は少なからず同じように感じるものではあるが)。みんな自分が住む世界から逃げ出したい、どこかにこことは違う何かがあると思って、中田英寿(あるいは過去の私w)のように自分探しの旅に出るわけだ。でもその試みは水泡に帰するのが通常。そうした人は結局、「周回遅れになるだけ」なんだ。いや、今では若者は知っているのだ。多くの希望が経済発展と連動していることを。もはや希望を見いだせず、虚無感を抱え、さらには絶望すら感じているはずだ。事実、絶望した若者の自殺は(高齢者と同様に)高止まりしている。でも、実際には多くの人間は死ぬことももままならない。いったい、どこに幸せを導き出せばいいのか。個人的には、そこにテーマを見出し若者の共感を得たのがエヴァンゲリオンだったと思うが、そのエヴァ以降、アニメ・漫画から小説・映画も含めて国内の多くの90年代後半からゼロ年代の数多くの文芸作品が、このテーマを扱い、そして結末はエヴァでシンジが周囲のみんなに祝福されて終わったような「日常の小さな幸せをみつけてそれに満足していこう」というものだったように思う。私もそうだったが、もがき苦しむことを長くは続けられない。結果、小さな幸せを見つけて人生をやり過ごすのがベターな選択だ。それが多くの人の共感を呼び、本映画でも主人公の賢は「小さな幸せを見つけようとした結果、お前と過ごしたいと思った」的な結末で共感を呼び、いわば、映画(=彼の人生観、宇宙観とも言える)を無意識にやり過ごそうとする。しかし、映画のヒロインの莉沙は、そんな賢に反発し、冒頭で「共感だけじゃダメなんだ」と食いさがる。賢はなぜ共感だけじゃだめなのか気づかない。この歯がゆさは榎本監督が現代の日本映画界に対するメッセージであろう。

 「告白」や「悪人」といったウェルメイドな映画がヒットする時代にあって、こうしたメッセージのある(還元すれば暑苦しい)映画にはまったく響かない人もいるだろう。「涼宮ハルヒ」シリーズのヒット背景分析の際に社会学者の西田亮介は、「多様化した今の時代、(映画だろうが小説だろうがどんなエンタメも)ヒット的の条件は絶対多数の共感である」と語っていた。私も好きな文芸評論家の宇野常寛までも「告白」や「悪人」を評して「ああいう映画が売れた2010年は映画界にとってすごくいい一年であった」といい、私は違和感を覚えつつ、【共感の時代】に納得(諦念)している。Facebookにもmixiにもまさに共感の時代を物語る「いいね!」ボタンが搭載され、人々が嬉々として「いいね!」を振舞う時代、共感を超える何かを求めても、それは考えすぎじゃね?と言われておしまいだろう。あるいは文芸的タコツボの一つと見なされて大多数には「あの人たちって、熱くウザいクラスタよw」として無視されるだけだろう。でも、もちろん私は信じるのだ。このような熱い体温を持つ映画が受けいられ、ヒットし、輪が広がっていくことを。震災はいい契機になるはずだ。


 最後にネタバレの感想を。

 ヒロインの莉沙役の岡本奈月はすごくいい。綺麗だし、そして成熟してない感じがこの映画にあっている。映画は女優で見る、という誰だっけかの名言がしみじみ理解できるほどだ伝わってくる。個人的に好きなシーンは、三つ。一つは、賢が莉沙の妹を映画研究会の仲間に合わせようとして大学構内の階段を登っていくシーン。バックにはヘビメタの音が流れ、盛り上がっていくところがドキドキしてエンターテイメントを観てるようでいい。二つ目は、最後の莉沙のセリフで、「まだ幸せになって欲しくない。でも長生きしてほしい。いろんな経験をして、最後によかったなと思って私のころに来て欲しい」というセリフ。その前のセリフで共感だけじゃダメだという理屈をえんえん莉紗に話させるよりも賢が途中で気づいて欲しかった気もしないではないが、そう、一部の人間(たぶん榎本さんも、そして私も)安易な幸せを求めて満足するようなタイプではないのだ。それに気付かされただけでも良かった(そして、それを分かってくれる女性がもっといっぱい存在してくれるともっといいw)。そして最後の最後、喫茶店のシーン。賢が莉沙の姉に映画出演をお願いし、脚本を差し出すところ。青い修正文字でいっぱいになった脚本のカットが、とってもとっても素敵だった。