赤坂憲雄 「東北学」 講談社文庫


東北学 忘れられた東北 (講談社学術文庫)東北学 忘れられた東北 (講談社学術文庫)
(2009/01/08)
赤坂 憲雄

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評価★★★★★


  1953年生まれの58才、東北芸術工科大教授として長らく山形に住んだこともある著者。民俗学の中でも柳田國男同様に東北という田舎に的を絞り、「東北学」という言葉を作ってその学問体系の構築に尽力し続けている、いまや東北研究の重鎮。山形に産まれた私としては一度読んでおくべき本とは知っていたが、3月の東日本大震災が私の背中を押してくれた。読み始めてすぐに読んでよかったと実感できる、良書である。

  日本の民俗学史において、柳田國男という元農水官僚が日本、特に東北地方に与えた影響は大きい。彼は東北を、深い雪景色の底に埋もれた、稲を作る常民たちの国(=「瑞穂の国」)と位置づけた。彼の「雪国の春」によれば、東北に暮らす人々は、野蛮な蝦夷(えみし)の子孫ではなく、中世以降に稲を携えて蝦夷を駆逐しつつ北へ北へと移住してきた南の日本人の子孫、稲を持って島伝いに日本列島に渡来してきた渡来人の末裔と考えた。元々官僚で経世済民の意識が強い柳田は、瑞穂の国と位置づけることで、農耕に従わず弓矢を持ち狩りをして肉食を常とする蝦夷の子孫であることを恥じる東北の人々を救済しようとしたという。しかしながら、その柳田の思想は、赤坂が調べた東北とはまるで違うものだった。

  もともと東北の人々は、米は天皇(朝廷)への貢物であり、ハレの日しか米を食べない。全国的にみても、米を日常的に食べるようになったのは戦後である。更に東北の山村では本格的に稲作が始まったのは1960年代の高度成長期以降で、政府が「日本の穀倉」に位置づけてからのことである。その結果、縄文時代から続いてきたヒエや粟などの雑穀文化、それをつくるに適した定住地としての山村文化が衰退し、一方で毎年のように冷害に悩まされるようになった。東北の人間なら、品種改良が進む90年代まで、東北には夏の冷害への恐怖が蔓延していたかを知っている人は多いだろう。

  もちろん、柳田の死後に発見された遺跡も多く、柳田が東北に大きく関わった時代から見れば、学問的蓄積も進んでいる。例えば、東北の稲作は弥生時代の前の縄文後期に始まっており(垂柳遺跡など)、当時は西南日本の稲の民の生活とさして変わらないことが分かっている。蝦夷は狩猟や採集にとどまっていたわけではなく、稲を受容したわけだ。しかも、水田遺構がそのまま稲作中心の営みを意味するとは限らないように、周囲の遺構からみて狩猟・採集・畑作などの基盤の上に稲作という新技術が受け入れられ、稲を含めた複合的な生業を営んできたことが分かっている(ただ、稲はヒエや粟など寒さに強い雑穀とは違って寒さに弱く、4―5世紀には東北の稲作はいったん途絶えている)。

  結局、著者の言うことを敷衍すれば、東北人を蝦夷の末裔から脱却しようとした柳田も、蝦夷が狩猟や採集を野蛮な人種とした歴史(大和朝廷以降の日本の「正史」)も間違えている。東北一円の伝説の蝦夷の首領である、悪路王(一部にアテルイとする説もある)について綴った「日本紀略」について今では誰も語ることはなくなっているが、西暦807年、朝廷側から派遣された征夷大将軍である坂上田村麻呂によって悪路王は殺され、その後すぐに朝廷側に東北のあちこちに毘沙門堂八幡宮が一気に建設された。伊達政宗が愛した宮城の塩釜神社は、そもそも古代の蝦夷制圧の最前線に築かれた砦(毘沙門神社)であり、神社に鎮座まします毘沙門天は、なんと蝦夷を踏みつけにしているという。著者は書いてないが、調停側が悪路王に負のイメージを洗脳するべく必死で建立したに違いない。

  著者は、そういう視点で松尾芭蕉も柳田同様に重要な歴史を見落としていると断じる。芭蕉の「奥の細道」に綴られた俳句の数々は、歌枕のまさざしが届く範囲を出ていない。たとえば、金色堂のある奥州平泉について歌った「夏草や つわものどもの 夢のあと」は、ヤマトの稲の王権につながる源氏によって滅ぼされた北の蝦夷のことに思いが及ばず、都の文人の好みにピタリと合うものでしかない。芭蕉は、夏草に覆われた戦いの跡にはすでに古代の蝦夷の屍が埋もれていたことくらい分かっていたはずだと。

 本書を読み進め、知識を深めるにしたがって、私は(今回の東日本大震災によって多分に喚起されたこともあるが)東北人としての愛郷心、いにしえの歴史に対する畏敬の念が大きく芽生えていくことになった。例えば、著者が言うように、東北には仏教や修験道に支配されるずっと前から「山の信仰」が存在していたことを感じさせる山々が多い(岩木山早池峰山など)。つまり、朝廷が早期に採用した仏教の影響下にないものがあることがわかる。死者を現代に呼び戻す役割を演じる盲目の口寄せ女性、イタコに関しても、仏教以前からある信仰に基づくものとする説があるという。ちなみに私の実家の山形ではイタコのことをオナカマと呼んでいた。あるいは、秋田のナマハゲも「鬼」起源ではないとする説に説得力がある(鬼は仏教用語)。そして、オナカマ、イタコ、オシラサマと東北には呼び名が違えど、全域で共通した口寄せ女性への信仰文化を多く持つ。狩猟を営むの糧とするマタギにしても、東北のみに、かつ、全域に存在していた。つまり、東北っていうのはみんな同じ文化圏をもつと言って過言ではない。著者はそこから東北人は蝦夷の末裔であるとの自説に持っていく。柳田國男は東北人と蝦夷には断絶があるとした。柳田の時代は終わったのだ。私は赤坂説を支持したい。

  最後、子供の頃、不細工で、しかも陰鬱で嫌いだった、民芸品のこけし。あれの起源説に「天保の大飢饉のときに失った愛児の姿を偲んで作られたものがで、こけしとは「子消し」を意味する」という説があると知って驚くとともに、今までこけしが嫌いだった自分が、つくづく情けなく思う。