「キュレーションの時代」 佐々木俊尚著


キュレーションの時代 「つながり」の情報革命が始まる (ちくま新書)キュレーションの時代 「つながり」の情報革命が始まる (ちくま新書)
(2011/02/09)
佐々木 俊尚

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評価★★★★★

 Twitter上で毎日のように貴重な情報をtweetしてくれる時代の先を歩むジャーナリスト、佐々木俊尚の最新作。本人が力作と訴え、前から気になってはいたが、忌憚のない書評で知られる元マイクロソフト社長の成毛真さんが「これはもはや思想書である」と絶賛していたことがきっかけで読むことにした。読み始めてすぐ、今回はすげーなと実感した。正直、これまで佐々木さんの本は有用な情報があってためにはなるが、文章にリズムがなくて読み物として面白くない、と思っていたが、読むたびに良くなっていく感じ。書き手として進化しているようで、これが彼の言う(知識や技能の)ソーシャル化ということなのかも知れない。

 本書はタイトルが語るとおりの内容で、かいつまんで書けば、「インターネットの時代、玉石混交な情報が渦を巻いてどんどん勝手に流れてきており、人々は情報を整理できなくなっている、これからはそれら膨大な情報を取捨選択して提示してくれる【キュレーション】が重要になってくる」ということである。それをアウトサイダーアートに着眼しつつうまく説明してくれる。

最初にジョゼフ・ヨアキムという、70歳になってから絵を描き始めた米先住民の血を引く画家が偶然、シカゴ大学内のカフェオーナーに見出されたことで、いきなりアウトサイダーアート界のスターになったという話から始まる。世界にプロの絵描きなんて掃いて捨てるほどたくさん存在し、更にはヨアキムのように老いてから急にプロとしてデビューする人もいる。才能は運が悪ければ埋もれていく。ましてインターネットの時代には、「プロじゃない人」の表現や発信も膨大に存在し、それらの中の一握りが急に脚光を浴びることが世界中で起きている。

エグベルト・ジスモンチは、その卓越した技量とその独特の音楽性が評価されて欧米を中心に活躍するギタリスト兼ピアニスト。日本では知る人も少なく公演機会すらなかったが、ある一人の女性プロモーターが来日公演を企画する。彼女は僅かな予算で効果のあるピンポイントな宣伝手法を発揮することなる。そもそも、日本でも世界でも、音楽はいまや個人個人の趣味嗜好によって細分化され、どれもそれぞれ別の文化圏で享受されるようになって久しい。幸田久未を聴く人はレディー・ガガのファンと親和性があるが、菊池成孔大西順子を聴く人と親和しない。ジスモンチのようなクラシックとワールドミュージックとのマージナルな領域に生息する得意なサウンドを感覚的に見つけ出す文化圏域はもちろん民族や国民性を超えて世界中に一定規模存在するが、Jポップのような大きな文化圏域の人とはシンクロしないのでマス宣伝をかけても投資効率が悪い。ジスモンチ系の文化圏域にいる人々はいったいどこに出没しているのか、それを生息地=ビオトープとすれば、そのビオトープをなんとか探し出して、そこに適切なアプローチしないと宣伝効果はない。それを肌感覚で分かっていた女性プロモーターは「現代ギター」という雑誌に照準を合わせる。その読者は塊としては小さいが、互いの情報流通は濃密だ。これはコミケなどの世界にも共通した傾向であろう。こういう小規模だが濃密な関係性をつくっているビオトープは、インターネットと親和性をもち、mixiなどSNSのコミュニティで濃密な関係性を構築している。プロモーターはそうした鬱蒼として複雑で巨大な生態系の全体像を見渡し、一つのビオトープに足を踏み入れたわけだ。著者は、川の一部を堰きとめ、ヤナをつくることで、ピンポイントで「ジスモンチ系音楽の消費者」を探し出すことに成功したと表現するが、その表現は的確で美しい。

 著者によれば、【キュレーター】とは視座を提供してくれる人のことだという。マスメディアがもたらす膨大な情報と、インターネット上で日々生み出される情報とが絡み合う現代社会では人々は情報過多にうんざりしている。しかも、それら情報はどれも消費を迫ってくるからうざい。彼の言う【キュレーター】は膨大な情報から有用な情報を見つけ出して提供してくれる編集者であり、多くの商品から有用なモノを提供してくれるセレクトショップのバイヤーでもあるわけだ。とはいえ、それはかつてのような顔の見えない編集者とは違い、実名で顔が見えて信頼をおける他者である。でもなぜ今になってキュレーションなのか。これまでもネット上には膨大な情報が飛び交っていたのにだ。私個人は、「時代」なのだと思う。例えば、ネット上で情報取得の手段は、佐々木さんの言うとおり、googleのような「キーワード検索による取得」から、twitterfacebookのような「信頼おける他者からの提供」(セレンディビティ検索と言ってもいい)に変わりつつある。セレンディビティな検索とは、検索というより偶然にも運よく良い情報にぶつかること。キーワード検索が今後もなくなることはないと思うが、おそらく徐々にセレンディビティな検索にシフトしていく。例えば、スマートフォンアプリの「フォースクエア」。レストランでもバーでも何らかの場所に「チェックイン」すれば、その場所に係わる情報が友人ら信頼おける他者から入ってくる。場所をキーワード検索して情報取得するよりもすばやく、かつ、有意義な情報に出会いやすい。一種のセレンディビティ検索であり、ここには本人にとって有用な情報、あるいは視座を提供してくれるキュレーターが存在しているわけだ。もちろんそこでは、飛び込んでくる情報も自分が恣意的に選んだ人からの情報でしかないため、一種のタコツボ化・島宇宙化が進む危険性があると批判もありえる。でも著者はそれも間違いだという。それらキュレーションは確かに多心円的だけど、どれも立ち消えが早いアドホック性が強い。逆に昔の会社文化・会社中心生活の方が同心円的で、その方がタコツボ化しやすいという。その通りだろう。ただし、そのぶん普遍は生まれず、同じ歌謡曲が売れることもなくなるとする。

 冒頭の成毛さんは、本書が思想書の粋に達しているという。私もそう思う。キュレーションが情報過多の時代における(多心円的でアドホックな)新たなライフスタイルの勃興を意味する象徴的な言葉となっているからだ。そのほか記号消費から機能消費、つながり消費へ、といった消費形態の変化・世相の変化についても分かりやすく説明している。

 さて、本書を読んで、私は私の仕事、業界紙編集者としての将来性にちょっと自信を持つことができた。インターネットはビッグビジネスをもたらさない代わりに、小さいけど濃密な情報流通の場(コミュニティ)を形成しうる。それはほんとそうなのだ。わたしの仕事は規模こそ小さいけど、ネットをもっともっと活用できる。きっと生き残る、生き残れるのだ。ありがとう佐々木さん。

 ★追記★ 本書がもう一つすばらしいと思うのは、消費形態の変化について触れていること。まずは、かつてのマス消費がもう消滅していること。結果、消費はいま二つの流れにあるという。一つは、「記号消費から機能消費へ」の流れ。オレはお金持ちというようなシグナリング(記号)消費が衰退し、高級車はいまだ記号消費を続けられる老人にしか売れなくなっている。若者は機能消費を選択し、洋服はファストファッションで満足している。もう一つの流れは「つながり消費」の拡大。消費は、消費そのものよりも消費に伴うコンテキストを他人と共有する、つまり関係性の確認という側面もあるが、現代はネットのコミュでの消費に見られるように、自分が承認されたい他者(共同体)へ接続のツールとしての消費=つながり消費が増える傾向にあるという。