「街場のメディア論」  内田樹著 

街場のメディア論 (光文社新書)街場のメディア論 (光文社新書)
(2010/08/17)
内田 樹

商品詳細を見る

評価★★★★

 売れっ子社会学者、内田樹の書いたメディア概論。まー、メディア論について、キーボードが進むままに任せつらつら書きなぐった雑文といった方がいい。著者に代わって私が本書のテーマを言えば、「既存のメディアの衰退はネットメディア興隆の結果にあらず、自業自得である。一方で、電子書籍に過剰におびえることもない」というものだろうか。ただ、雑文にしてはすごくよくまとまっていて、目から鱗が落ちるがごとき論点もあって面白かった。

 さて、どの国でも同じだが、現代は大学生が新聞を購読しなくなり、私を含め一般家庭でもテレビを観なくてもいいという人が徐々に台頭、その数はますます増える傾向にある。その原因にはインターネットメディアの台頭がよく指摘されるが、著者はそうではなく、既存メディアの質の低下にあると断言する。「現場に足を運んで一次情報を手にすることのできるメディアは庶民ではないのに、最近のメディアはあたかも無知な庶民の代表を気取り、ときに被害者づらさえする」から問題だというのだ。「無知でどこにでもいる人間、代替可能な人間が書いた文章などに魅力はない。個人が責任をとらないで書いた文章など発せられるべきでもない。誰でもいいそうな文章、読んでいて(パターン化された)定型的な結びが想定できる文章が紙面を埋めていれば、それは他のメディアでもいいという判断を読者に与えることになる」というような要旨で、現在のメディアを批判する。しかも著者は、メディアの質は(無知な読者ではなく)知識を持つ同業者による批判(=ピア・レビュー)によって維持できるものだとし、今はそれがないと憂う。特にテレビは巨大なビジネスだけにステイクホルダーが多く政治的圧力や恫喝に屈しやすいが、今はそれが加速、ピア・レビューによる相互批判はなく、単に大衆に擦り寄ったような低俗な言論ばかり。その結果、「われわれが存在しなければ日本はどうなるのだろう」と読者に自らの矜持を語りかけることもない、誰が書いても同じような文章ばかりだから「われわれは必ず存在しつづけねばならない」と存在意義を提示することもないという。ほんとにそうだ。

 一方で、既存メディアにとって近い将来の強力なライバルとされる電子書籍は、確かに紙ベースの出版では利益のでない本をリーダブルなものしてくれる。リーダブルな書籍が増えることは、それまで読者として見なしてこなかった人々を読者に変えてくれる。その意味で電子書籍には読者へのリスペクトがあるとする。これに対して、紙ベースの書籍は、読者よりも作家や出版社、取次、書店といった既存の関係者の私的利益を優先しがちで、読者を忘れているという。

 とはいえ、電子書籍にも問題がある。電子書籍は危機耐性に弱い。つまり、電力の安定供給という条件が必要だ。さらに言うと、本棚に配架できないこともデメリットだという。著者は、本棚にある本がすべて読んでいるとは限らず、いつか読まねばを思っている本、あるいは、これを読めるくらいにリテラシーを備えていると思われたいがための本だったりするとする。本棚というのはそうした、こうなりたい自分という願望によってつくられたもので、友人の本棚にある本を見て自分も読まねばならないと思ったことはないだろうかという。確かに、友人の本棚は自分を教化してくれる。教化された自分は、新たな知の分野に一歩すすむことになるが、電子書籍を絶賛する人は、そうした要素を度外視する。電子書籍が自分に「これを読め」と迫ってくることはないという。他人の本棚が自分を教化してくれるというのは私にも経験がある。「読んでおかないとならん」って思うことがきっかけとなって、自分の蒙を啓いてくれる。確かに、iphoneにある他人のダウンロードデータを見て身震いすることなんてあるのかと言えば、ないだろう。いまだにクラブDJがレコードをかけるように、データファイルなんて味気ないものだ。他人のデータをみても「あっ、そうなんだ」で終わるのではないか。

 そして、本書は著作権の問題に発展する。本の著作権は自然発生的に自明な価値なのか。著者はいう。人が生まれて初めて読む本は、自分がお金を出して買った本では決してない。家の本棚や友人、学校から借りた本である。その無償の読書体験の果てにお金を出して本を買う行為がある。書籍が商品という仮象をまとっているのは、そうした方がテキストのクオリティをあげ著者にとっても読者にとっても利益が増大するからであり、著作権それ自体に価値は内在せず、単なる便宜上の権利であるとする。もし、そうではないと言うなら、「あなたの本を他人に読まれないよう、全部わたしが買い取って廃棄処分にするという人がいたら、それを断ることはできないはずだ」と糾す。著者は、本が贈与品なのだという。贈与品は反対給付の義務を生み、それが本に代価が存在する理由であるとする。「コミュニケーションとは交換であり、それが成立するのは何かを受け取ったものが反対給付の義務から逃れられないから」とするレヴィ・ストロースの言葉を引き、無償で読む人を育てていけば、必ず有償の読者が生まれる。お金を払って返礼しないと気がすまない人が出てくるのだと最後に締めくくっている。