教養 「先生はえらい!」 内田樹著


先生はえらい (ちくまプリマー新書)先生はえらい (ちくまプリマー新書)
(2005/01)
内田 樹

商品詳細を見る

評価★★★★

 岡田斗司夫が絶賛していたので面白そうだったから読んでみた。「先生は白馬に乗った王子様のごとくやってこない。あなたが探すのです」という、最初の方に出てくる文章が象徴するような、学びとは、先生が生徒に何かを伝授するものではなくて、生徒の方が先生から得るということ、学びの主体性は生徒の方にあるということを論理的に分析・説明した本。新書ってこともあり、解説は平易で分かりやすく、とっても面白かった。

 最初に著者は、自動車教習所で運転を教えてもらった教官を恩師と呼ぶことはないと読む者に同意を求めてくる。学びことは、先生が何か有用な知識や技術を与えてくれる対価を払うことで成立する、定量的な取引ではないというからだ。学びは恋愛と同じで、盲目的で、大いなる誤解に基づくものだとする。恋愛って、金や顔で決まるっていっても、実は学歴とか年収とか外形的・定量的な条件だけでは決まらず、凶暴な面相の少年が捨て猫を見るときにみせる「慈しみあふれたまなざし」といった「意外性」にどきんとするのが実態。師弟関係も「そこに気づいているのはわたしだけ」という確信を抱かせる(もちろんそれは誤解である)から成立するという。

 しかし、なぜ学びの現場で誤解を生むのだろうか? 学びを積み重ねれば誤解は徐々になくなるはずだし、優秀な弟子であればそもそも誤解は少ないのではないかという疑問も沸く。でも著者は、学びは言葉により伝授されるもので、コンテンツの次元にあるのではなくコミュニケーションの次元にあるため常に誤解がついて回るという。しかももっと科学的に言えば、コミュニケーションは、常に誤解の余地があるように構造化されているというのだ。
 人はそもそも、相手の反応をみて口調をかえたり、はしょったり、膨らませたりする。これから何をやりたいのかと聞かれた学生が、先生には「大学にいく」と答え、友人には「ロックミュージシャンになりたい」と答え、親には「うるせえな、俺の勝手だろ」と答える。それはどれも嘘ではなく、本当のことだ。相手にあわせて語る言葉を変えるし、聞いてくれる人に対しても自分が言いたかったことではなく、途中で相手の反応をみて内容を変えてしまう。はじめに言いたいことや聞きたいことがあるのではなく、言葉が行き来した後で「言いたかったこと」「聞きたかったこと」を勝手につくっている。つまり、言いたいことが相手によって変わるから誤解を生むというのだ。加えて、人は学ぶことを欲するものを無意識に選んでいる。太宰治ファンの生徒は志賀直哉の文章を心穏やかに読むことはできないように、はじめからある種のバイアスがかかっているわけだ。

 さらにいうと、人は理解できないこと、誤解することを欲してすらいる。恋だって、「君のことをもっと理解したい」が恋の始まりであって、「あなたって人がよくよくわかった」は恋の終わりを意味する。最近の若者が「ヤバイ」とか「かわいい」だけですべてを表現するのは、わざと相手に誤解させて意思疎通できない、「宙づりの状態」を楽しんでいるというのだ。文章もスラスラ分かるものより、なんだかよく分からないけど腑に落ちるものが好まれる。デビッド・リンチの映画はよく分からないことを狙ってつくられている。そう、生徒も先生のことがよくわからないから、謎の先生だから尊敬し、師事するのだ。

 それをよくわかっていたのが夏目漱石で、彼は「先生」の条件に挙げていることは二つ。?なんだかよくわからない人?ある種の満たされなさい憑りつかれた人であれば十分としている。確かに彼の小説に出てくる「先生」はどれもよくわからない、そんなに魅力的とも思えない、なんだかもったいつけたような、しかも内省的な先生ばかりだった。哲学者のジャック・ラカンも同様に「無知ゆえに不適格者である教授はいない」と述べている。

 大人になっても賢くなったり洞察力がつくわけでもなく、大人になって分かるのは自分のバカさ加減ぐらいだ。最後に著者は、中国の能楽張良」の話をする。若き張良は、兵法の奥義を教えてくれるという老人、黄石公に出会う。でもいつまでたっても黄公は奥義を教えてくれるそぶりもない。あるとき、馬に乗った黄公が張良の前でかたっぽの沓(くつ)を落とす。張良は何の意味があるのだろうと考え込むが分からない。そして、ある日、黄公は再び馬に乗って張良の前で両足の沓を落とす。そこで張良は兵法の奥義を悟る、という能である。なぜ張良は奥義を悟ったのか。それは武道でいう「居着き」(=ある体勢にとらわれ、いったん居着いてしまうとそこから立て直すことが難しい)と同じだという。張良は沓落としが「兵法にかかわる謎かけ」だと解釈してしまい、その解釈に魅入られ、次に相手がどう出るか、「待ち」の姿勢に居着いてしまったのだ。兵法の奥義とは、「人間はこうやって負ける」ことに気付くこと。「必勝の構造」は「必敗の構造」に身を置いたものだけが体得できるものである。もっと言えば、理解したのは「身を置いた」張良であり、黄公が教えたわけでない。

 自分の問いに答えを出すのは弟子自身の仕事である(ジャック・ラカン)。