社会評論 「ネクストソエサイエティ」 ピーター・F・ドラッカー


ネクスト・ソサエティ ― 歴史が見たことのない未来がはじまるネクスト・ソサエティ ― 歴史が見たことのない未来がはじまる
(2002/05/24)
P・F・ドラッカー

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評価★★★

 「日本では誰でも経済の話をするが、日本にとって最大の問題は経済ではなくて社会の方にある」

 前書きに出てくるドラッカーのこの文章を目にしたとき、なぜドラッカーがこうも日本で人気があるのか、分かるような気がした。本書は、2002年にダイヤモンド社から刊行された書籍。後半はドラッカーのエッセイをまとめたもので、正直、読み応えのある前半だけ読めばいいと思う。

  内容はアルビン・トフラーの「第三の波」と近似しており、ネクストソサイエティ、つまり、次にくる社会はどんな社会なのかを予言したものである。第三の波を読んでいたため、本書で書かれていることがスーと頭の中に入ってきた。本書の方がより具体的で、かつ、短く簡潔である。ただ、そのぶんなぜそうなっていくかについての背景説明が乏しく、やはり第三の波を併せて読んだ方がいい。さて、彼の予期する社会は以下のようになる。

 先進国でも発展途上国でも高年人口が増大。P&Gやユニリーバは1950年来、若年人口の増加と家族形成のおかげで利益を増やしてきたし、自動車メーカーもそうである。それが徐々に限界に達していく。すでにあらゆる先進国では製造業労働者の割合は減少をたどっている。かといって少子化の原因は複雑で、簡単に出生率を調整できない。政治家は年金制度の改革を約束するが、20年後(つまり今から15年後)には誰もが70歳半ばまで働かないとならないだろう。大学卒業して50年つとめることになるが、それは一つの会社にいるには長すぎ、転職が普通になる。そして、労働はどれもフルタイム正規雇用ではない。

 一方、経済活動の現実は創造的破壊にある。Eコマースが心理的距離をなくし、競争はローカルたりえなくなった。あらゆる企業にグローバル化が要求されている。素材産業は使う材料ではなく、得意とする事業領域で自らを再定義せざるを得ない。製造業は、かつての農業がやってきたと同じように保護主義化する。かつて、あらゆる先進国では農産物価格が下がり、農業従事者が減少したが、その倍の補助金を出してきた。農民は数が減るほどに団結し、利害集団として不釣り合いな発言力を得ている。そして、先進国の多くが今では余剰農産物を抱え、農業輸出国になっている。製造業のブルーカラーも所得以上に大切な社会的地位を失いつつあり、それに抵抗する。

 しかも、社会を重んじるドイツと人を重んじる日本は労働市場を硬直化させる。米国は経済を重んじるが、経済が好調でないと歪みをうむ。日本で競争にさらされているのは自動車と電機産業のみで、それ以外は規制で保護されている。銀行にはおどろくほど余剰人員がいて、その結果、きわめて低金利である。

 とはいえ、日本の官僚叩きは異常だ。たしかに戦後日本のかたちを作り上げてきた日本の官僚は、近年はずっと不祥事と無能が暴露されている。にもかかわらず権力を保持しており、予想以上に耐久力がある。官僚は、家柄ではなく能力に基礎を置く指導層である。その観念はアメリカにはない。アメリカの指導層はまさにアメリカ的な、政治任用の行政官と議会スタッフである。そしてアメリカと一部の英語圏をのぞき、世界には日本と同じく官僚優位の国が多い。背景の一つは、日本では先送り戦略が有効に機能することで、多くの社会的問題の先送りによって解決してきた。つまり、先送り戦略は一概に不合理とはいえない。そもそも日本人は、自分たちの社会が脆弱だと思いこんでいる。でも外から見れば、あらゆる先進国の中で最も人と社会を優先して考える日本では、社会的な絆と力の強さが際立っている。明治維新や敗戦など、何度も社会的混乱を避けながら難関をくぐりぬけてきた。

 来るべきネクストソサイエティは、知識が中核の資源となる知識社会である。知識労働者にとり、仕事は金よりもやりがいfs。知識とは専門化であり、会社に忠誠を誓うと言うよりも専門分野に忠誠を誓うことになり、周囲からは自分自身よりも専門分野に敬意を払われることを望む。知識は成功者と敗者を大きく分ける。それが分かっているから少子化で少なくなった子供ひとりひとりに以前なら5人分の多大な教育費を払い子供に勉強させる。情報をもつ者が力をもち、買い手に主導権が移る。メーカーは消費者のための買い手に回る。

 人を惹きつけるのは金ではなく知識。ナレッジマネジメントがより重要になり、CEOに必要なのは、この組織は何をしてどこに向かうのか、責任を与えられて自己実現できる、継続学習の機会を与えることである。そして競争力を保つために常に知識労働者の生産性向上に努めなければならない。