ノンフィクション 「BORN TO RUN 走るために生まれた~ウルトラランナーVS人類最強の”走る民族”」

BORN TO RUN 走るために生まれた~ウルトラランナーVS人類最強の”走る民族”BORN TO RUN 走るために生まれた~ウルトラランナーVS人類最強の”走る民族”
(2010/02/23)
クリストファー・マクドゥーガル

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評価★★★★★

  著者は、元AP通信記者でライターのクリストファー・マクドゥーガル。メキシコ奥地の“走る民族”タラウマラ族との邂逅、そして彼らが参加した2006年の80kmウルトラマラソンについて書いたノンフィクション。
 
 ランニングが好きな著者は2003年のある日、5キロの軽いランニング中に、左足に激痛を覚え、走れなくなる。走り方が悪いのか。スポーツ医学の権威は彼に「走り方は悪くない。もともと人間の身体はそんな酷使に耐えられるようにはできていないんだよ」と言う。しかも複数の有医が。しかし、一部の人間は、走っても、走っても、怪我などしない。その昔、メンセン・エルンストというノルウェーの船乗りは、パリ−モスクワ間を18日で走破、一日平均200キロ走り続けても平気だった。なぜ自分は走れないのか。
 
 そんな彼はある旅行雑誌で、タラウマラ族というメキシコの少数民族の存在を目にする。別称ララムリ族、日本語で“走る民族”とされる彼らは、文明から閉ざされた秘境に住む、穏やかでおとなしい民族だ。走ることを得意とし、手製のサンダルを履き、準備運動も専門的トレーニングもなしに4時間、平気で走り切る。どうして身体を壊さないのか。興味を抱き、彼らに会いたいと旅を重ねるうち、ひとりの元ボクサーに出会う。彼の名はカバーヨ・ブランコhttp://www.caballoblanco.com/。タラウマラ族と深い親交を有する彼はなんと80kmウルトラマラソンの開催をセッティングしてくれることになったのだ。全米ナンバーワンのウルトラランナー、スコット・ジュレク(http://www.scottjurek.com/blog/)の参加も
決まった。

 さて、本書はここから別のトピックに移る。ナイキらランニングシューズメーカーへの痛烈な批判だ。靴のクッション性がいくら進化しても、ランナーから足のケガがなくならない。ある研究者は、「足やひざのケガの多くはシューズに原因がある。靴は足を弱くする。オーバープロネーションを招き、膝を壊す」と主張。違う研究者は、「いくらクッション性のいいシューズでも走る足の衝撃を吸収できない。逆にクッションがあるために足がふらつきやすくなり、ますます強く踏み込むから却ってダメだ」と言う。しかも、クッションのある靴は踵が高くなるため、どうしても着地は踵から入りやすくなる。踵着地はストライド走法が示すように距離をかせぐにはいい。でも、ひざを傷めやすい。やはり靴のクッション性は不要なのか。迷い始めた著者は一人のスポーツコーチと出会う。彼は「先住民のような走り方を身につければ、誰でも50マイル走れる」という。その走り方とは、「前足部で立ち、背筋をのばし、頭を固定し、腕を上げ、前足部でさっと着地し、尻に向かって蹴り上げる」というもの。そう、フラット走法だ。そして「息苦しくなる時点を超えないようなゆったりとしたランニングから始める」(=つまり遅いから無理せず踵着地になりにくい)というものだった。その走り方が身に付いたら今後はスピードを強化。フラット走法にスピードが加われば、「より足で立つ時間が少なくて済む」ようになるんだ。

 しかもここからがスゴイ! 著者は、“人間そのものが走るために生まれたのではないか”という科学者の世界に突入していく。人間には、類人猿のチンパンジーにすらないアキレス腱がある(ホモ・エレクトゥスから)。チンパンよりも遥かに尻の肉が分厚く、頭にはチンパンにはない項靱帯を持つ。しかも人間は、他の生物とは別格に違う機能、一つは一歩進むうちに複数回の呼吸ができる機能、二つ目は体熱の大部分を体中の汗腺から放出できる機能−−を持つ。この二つの機能は人間以外の他の生物にはない、もしくは極端に弱い。つまり、人間は”生物最強の空冷エンジン”を持つわけだ。それはなぜか。狩猟時代、獲物を走って追いつめフラフラにさせて捕らえるために進化させたからだと、ある科学者はいう。事実、今の世もなお、ブッシュマンたちは狩りのとき、走るだけで獲物を追い込み捕獲している。そう、人間は、本書のタイトルの通り、“Born to run”=走るために生まれたのではないか、著者は主張する。

 タイトルは、ほら、ブルース・スプリングスティーンの“Born to run”。それもあって、読んでいると興奮が沸き、すぐに走り出したくなる。もちろん、走ることに関心のない人は読みたい本の部類に入らないかも知れない。しかも、本書は厚く、ちょっぴり重い。でも、アメリカ人の為せる業かな、日本人の書き手ならばあまり感じることのないエネルギーを持っている。幸いかな、わたくしは久しぶりに、身体の奥までガツンとくるノンフィクションを読む機会に恵まれた。