映画 「抱擁のかけら」

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評価★★★


 オレが高校以来およそ20年間観てきた中で、0指に入る大好きな映画「オール・アバウト・マイ・マザー」を産み出したスペインの誇る名映画監督、ペドロ・アルモドバルの最新作。街頭で見かけた宣伝ポスターも魅力的で、主役に位置づけられるペネロペ・クルスのペップバーンのようなキュートな顔と鮮やかな朱色の背景が絶妙にマッチしていた。

 視力を失った元映画監督のマテオは、ハリー・ケインという名前で映画監督時代の同僚に支えられながら脚本家として生計を立てている。その同僚は年の近い女性で、身の回りの世話をする姿はまるで妻のようにかいがいしく、彼女の息子も時に現れては家族のように親しい。ある日、新聞でハリーは一人の実業家が死んだことを知り、自分の辛く悲しい過去を思い出すことになる。物語は、愛する女性を失うに至るマテオとしての過去、脚本家ハリー・ケインとしての現在の、2つの時系列で重層的に展開していく。

 14年前、成功した実業家コルテルは、秘書レナ(ペネロペ・クルス)の美しさにおぼれ、自分の家に囲い込んで愛人とする。しかし、レナには女優になる夢があり、応募したマテオの新作映画のキャストに応募、主役に抜擢される。監督と主演女優という濃密な関係に嫉妬したコルテルは、映画に出資して自らプロデューサーとなり、自分の息子を使ってロケ中のレナを絶えずビデオ撮影させ、監視する。そんな努力もむなしく、レナとマテオの恋は燃え上がる。ただ、いつの時代も、燃え上がった熱い恋の火花は、その瞬間的なエネルギーが強ければ強いほど終わりが早く訪れ、悲しみの傷跡を深く残す。レナとマテオは、嫉妬深いコルテルから逃れるべく出掛けた旅行中、交通事故に遭い、レナは死んでマテオは光を失う。
 
 物語は再び現在。レナとの思い出を封印し、名前をハリーに変えて過去と決別することで、悲しみや苦しみから逃れて生きているマテオ。しかしエンディングには希望がある。コルテルの息子との再会により、レナを撮影したテープが編集されぬまま残っていることが分かり、映画を改めて作り直すことになったのだ。映画を作り直すことで再び過去とのつながりができ、失った人生を取り戻すことができるのだ。

 ただ、そんなマテオの感情の描き方、個人的には少し物足りないと思う。もちろん、すべて説明する必要はないし、サッパリした方法論もありだと思うが、中途半端すぎてマテオの苦しみや喜びが伝わってこない。映画の主役にペネロペ・クルスになっているのも納得がいかない。この映画のテーマはマテオの復活なのだ。確かにペネロペ・クルスは映画中何度も裸をさらして、まるで何か憑き物が落ちたかのように怪演しているし、そのおかげで老コルテルを素直に受け入れる情愛、一方で自分の夢をもつかむエネルギー溢れる女性として、存在感ある演技を見せ付けてくれる。そのぶん、マテオの心理描写を強くしないとテーマが薄くなってしまうのに。結果、これまでいい意味で女性礼賛を強調してきたアルモドバルが、単なる偽善的なフェミニストに見えてしまう。現在58才のアルモドバルは、映画監督としてのピークを過ぎたのかも知れない。

 とはいえ観賞後、男は恋愛において年を重ねていくほど立場が弱くなるものだという思いを強くした。それはもてる、もてない、恋愛上手下手に関わらず、普遍的なものかもしれない。当然、オレももう、20代から30代前半までなら持ち得ていた自信を失ってしまっている。