小説「樅の木は残った」   山本周五郎著

樅ノ木は残った (下) (新潮文庫)樅ノ木は残った (下) (新潮文庫)
(2003/02)
山本 周五郎

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評価★★★★★

 山本周五郎は「さぶ」しか読んだことがない。大人の友情を描いた「さぶ」は、今でもまったく色あせることのない、歴史小説の枠を超え、最高にすばらしい泣ける小説であり、同じく山本周五郎ファンの評価が高い本作品も読みたかったのだが、本作品は主君に仕える家来の悲哀を描いており、なんとなくサラリーマン向け小説っぽい感覚が嫌で敬遠してきた。でもワタクシにもついに、本作を読んで泣きたいときが来てしまった。決定的だったのはアマゾンのレビューにあった、あるレビュアーの「20代の頃まで反抗的だった男性は、中間管理職を通して、山本周五郎にハマる」との一文。なるほどなあと思って、仕事前に本屋に直行した。
 
 本作は、江戸時代初期に仙台の伊達家で起きた、お家騒動である「伊達騒動」をベースにした物語。3代目藩主、伊達綱宗が幕府から派手な遊興を咎められて藩主を2才の息子綱村に譲れと逼塞(=監視されながらの隠居)を申しつけられる。翌日、綱宗を遊びに誘っていた藩士が刺殺され、伊達家の家老たちによる意見の争いも昂じ、どんどん騒がしくなる。ただし、その背後には伊達家家老の一人と幕府家老との密約が存在、わざと騒動を大きくして伊達家の領地を分断しようとの画策があった。
 しかしながら、その裏側にはこれまた幕府の意図が存在し、密約の家老を利用し伊達家そのものを潰して幕府の安泰を図ろうとの狙いがあったのだ。その裏の裏の意図を見抜いた伊達家家臣のひとり、原田甲斐は御家の存続こそ第一とし、藩内の悪評を恐れず自ら密約の家老の懐に飛び込み、忍従を装いながら、騒動を大きくしようと目論む幕府の行為をたびたび未然に防いでいく。

 正直、読んでいても、原田甲斐がひたすら忍耐し続ける姿には、もがいてもどうにもならない苦しさを覚える。しかも、疑い深い密約の家老を騙すためには、自分を慕う家来や友人をも騙さなければならず、原田の深い戦略を理解してくれる人間は時間を追うごとに少なくなる。最初は「原田には何か意図がある」と思っていた友人もしだいに原田のことが分からなくなり、離れていく。最後に原田は、自らの命はもちろん自分の家族の命さえも御家を守るために捨て去った。残ったのは樅の木だけ、原田の斬り付け行為によって原田家はみな殺しに処され、原田家は断絶させられている。そう、伊達家の存続を大義に自らの家族まで捨てた原田の行為は正かったのかと言われると、現代社会・現代文明のフレームでは理解されない可能性が高い。おそらく、このレビューだけ読んだ人にも原田の行為は理解できないのではないか。
 でも、読んだ私は原田が好きだし、こんな人に仕えたいとも思う。吉田松陰の辞世の句「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留めおかまし大和魂」に通底するものと同じだが、義の中には決して他人に理解されない大義が存在するということだ。その大義を求め貫く生き方は、例え最後まで他人に理解されないとしても人間として価値ある生き方であるということだろう。そして、そうした信念と迷いの葛藤、模索と苦しみこそが山本周五郎文学。
 ある文芸評論家が書いている。「若い頃、太宰治の文学に感動した人は、必ず中年になって山本周五郎の文学に感銘する。二人は単に物語が面白い文学者ではなく、自分の人生に深く関わる、自分の人生を決定的にする力を持っている文学者である」。