映画  「This is it! 」 (マイケルジャクソンの追悼映画)

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評価★★★★

  正直いって、マイケル・ジャクソン(MJ)は特に好きではない。彼の音楽の中には好きな曲もあるけど、強いていえば、不自然な容姿が気色悪くて好きになれなかった。

 第一に、どうして黒人の黒い肌があんなにも白くなったのか。MJが何度も美容整形している事実を直視すれば、肌の色も金で買ったんだろうと勝手に思っていた。ただ一方で、金で白さが買えるのならどんなに金を高くても白さを得ようとする人が、美白ブームに沸く日本を含め、世界にたくさんいておかしくない。でも、実際にはそんな人、MJのほかを知らない。そもそも人為的に肌の色を変えるなんてできるのか。「それはね、えっと、彼は肌が白くなる病気だったんですよ」。MJが亡くなってすぐ、酒場のカウンターで、私は友人であるファンの一人からそう聞いた。なるほど、日本にもそうした病気を持ち顔に白いあざのような班を抱えた人って、少なからずいる。ウィキペディアによれば、MJが患っているとされる病気は尋常性白斑で、皮膚の色素の一部が抜け、徐々に広がっていく免疫疾患だという。そもそもMJが死んだ時点の美容整形施術において、全身の皮膚を白くするのは技術的に不可能らしい。

 本人が認めている美容整形に関しても、本来は個人の自由だ。日本の芸能人の多くが鼻や目をいじる現代、「ハリウッドでは皆がしている事なのに、僕だけが整形していると言われるのはフェアじゃない」というMJの言葉も理解できる。もちろん美容整形を許すならば、前述した肌の色に関しても本人の自由だ。そう、確かに本人の自由なんだけど、どこか納得がいかない、それも正直な感情である。おそらく多くの(日本の)人々も、私と同じ感情を持っていると思う。なぜなのか? 「身体髪膚、父母にこれを受く。敢えて毀傷せざるは孝の始めなり」という、中国古典の教訓が少なからず根付いているからなのか。いや、むしろ、スターに特有なものなのだろう。「スターの美は造られたものであってはならない」と決めつけているのだろう。造られたものなら何故に自分ではいけないのかというスターへの嫉妬、劣等感、登りつめた人間を引きずり下ろすことの快感、そうした俗情が背景にあるのだろう。そして、スターに群がるメディアは洋の東西を問わず、大衆の俗情に媚びて事業を成り立たせている。

 そういう大衆のもつスターへの嫉妬という文脈で整理すれば、多くのことが分かってくる。児童への性的虐待疑惑は、裁判の結果、今では全ての件に関し無罪と証明されている。ただ、MJだって人間だ。自身の息子をバルコニーから落とすような奇行を見せつけた事件に対してはMJ本人が間違いを認め謝罪している、つまり、他人には愚かに思えるちょっとした失敗を、MJもしているに過ぎない。。

 ただし、違和感がまったくないわけではない。たとえば、「ヒール・ザ・アース」と掲げて自然環境の保護をファンに諭すならば、あんな膨大な電気量を使う豪華絢爛な大規模ライブツアーをすることは矛盾にならないのだろうか。MJなら他の効果的な啓蒙方法を実現できるはずで、偽善的だと言われても仕方ないのではないか。

 さて、本映画、過去のリハーサル映像を集めて張り合わせたものなのでストーリーはない。映像の作り方そのものも、同じミュージシャンを撮った作品ならば、昨年マーチン・スコセッシが撮ったローリングストーンズの映画の方が、格段に美しく、格段にエッジが利いている。でも、MJが死去し、MJの作品を造れない今にあって、本映画ほど、MJの魅力をたっぷり伝えた作品はないと断言できる。なんといっても彼の、言葉はか細く、けっして大声を出さない謙虚な人柄、それに相反するかのような強いプロフェッショナリズム(職業意識)。控えめはないけど情熱的、存在そのものはカリスマだけどカリスマティックではない、そうしたMJの姿が最初から最後まで画面いっぱいに横溢する。そして、MJの「控えめだけど真剣な」言葉には、バックのミュージシャンやダンサー、スタッフらがみな、感化さていく。たぶん、MJ本人が生きていたら、こんなリハーサル映像が公に上映されるなんてこと、彼のポリシーに反するとして許されなかったはずだ。ただ、多くのファンがこの映画を観て涙し、そして私と同じようにファンではないが映画を観た人の多くが感激しているのは間違いない。草場の蔭にいるMJ本人も、おそらく、笑顔で許してくれるのではないか。

 小学生のときに聞いた「スリラー」を皮切りに、彼のヒット曲はどれも私の人生にオーバーラップしてくる。ビートルズにしてもストーンズにしても私とは時代が違う故、彼らの音楽が私の人生にオーバーラップしてくることはない。MJは決して嫌いにはなれない。なぜなら間違いなく、私はマイケル世代なのだ。 、私はマイケル世代なのだ。