対談本 「出家の覚悟−日本を救う仏教からのアプローチ」  南直哉、 スマナサーラ長老

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評価★★★★★

 決してワタクシは出家したいわけではないw。仏教や東洋哲学に一般的な興味はあるが、仏門に入って剃髪し、一生独身でいたいとは思わない。本書は「出家の覚悟」なんつう強烈なタイトルがついているが、単に二人の仏教家の対談をまとめた本である。

 一人は、アルボムッレ・スマナサーラという64歳のスリランカ人で、スリランカ上座部仏教であるテーラワーダ教、いわばブッダの根本思想を教える初期仏教の伝道者。1980年に来日以来、日本テーラワーダ協会に従事しつつ、たくさんの著書や講義を通してブッダの教えを説き続けている。もう一人は、青森は恐山の菩提寺曹洞宗)の院代、南直哉(みなみじきさい)。以前、宮崎哲哉がアンカーを務めるBS番組に出演していたのを観たことがある(http://www.youtube.com/watch?v=SyNP2BlG2oM)。どちらも知る人ぞ知る人で、長老に関してはワタクシ、存在すらまったく知らなかったが、仏教界ではとっても有名で、売れっ子らしい。こんな本、普通は買わないんだけど、著名アルファブロガー小飼弾が「いかに日本の寺が駄目かが分かった。目どころか全身から鱗が落ちた」というよう風に評価していたのをたままた目にして、図らずも買っちゃったw。

 そもそも、オウム事件酒鬼薔薇事件のときに思ったんだけど、なぜあんな日本社会を揺るがす事件の際に日本の仏教家たちは黙っているのか。なぜに日本仏教の仏教者の言葉って胸に響いてこないのか。その駄目さ加減が、読んでいると確かに小飼弾ごとく、「目どころか全身から鱗が落ちる」ようによく分かる。日本は大乗仏教であり、スリランカは小乗、スリランカの方が原理主義的とかいう問題では決してない。要するに日本仏教は「甘い」のだ。妻帯し、酒は飲み、外車に乗る生臭坊主だらけ。みんな、親が坊主だったから自分も坊主になったという、単なる住職、つまり世襲で引き継がれた坊主たちで、そのシステムにおいては親が住職でない限り坊主になるのは難しい(そんなのは日本だけらしい)。死者儀礼、つまり葬式をビジネスとしてやっていれば暮らしていけるせいか、ブッダの教えを真剣に学び民衆に分かりやすい言葉で語りかける姿勢などみじんもなくて、あるいは小難しい「仏教用語」ばかり並び立て、宗派の内輪だけで満足している。親鸞日蓮道元も悪いのかも知れないが、悩める人が寺に駆け込んできても、単に念仏や題目を唱えれば見えてくるとか、座禅を組めば悟りに達するとか言って満足し、悩みに対する答えを導きだす努力をしない。ブッダの教え、その言葉の定義を突き詰めていないから、メディアに露出しても話しをしたとしてもその話している説法が、いったい仏教の話なのか、世間の道徳の話なのかさえハッキリしない。
 もちろん、そんな人ばかりではない。南直哉は親が住職でもなんでもなく、大学卒業後、民間企業を経て自らの意思で出家した坊主だけに、絶えず学ぶことを忘れず、そして悩める人々に語りかける努力を惜しまない。ただ南先生、長老の前では、理論も中途半端で、まるで子供にしか見えないがw。

 まあ、そうした日本仏教の問題点だけではなく、この本は仏教を知り、生き方を考えるにはすごく参考になる本。例えば、長老の言葉、「仏教はヒューマニズムではない。人間のためにあるのはない。生命のためにある」なんて、とってもいい言葉でしょ?

 加えて長老、「親子の愛とか、真の愛情とか言う際の愛とはなんなのか? 思い通りにしたいことなのか? 仏教ではそれは慈しみのことであり、日々の努力で育てていくべきもの。仏教での愛は感情であり、人を助けることもあれば、殺すこともある。愛は、あくまで自分のためでしかない」という。まさしくそうね、ああ、耳が痛い。
 長老は更に、「生きることに意味なんてない。探しても目的なんて見つからない。生きる上での大きな価値なんてないし、そう考えると、生きていても空虚感しか生まれない。でも人は必ず死ぬ。その死を避けなくてはならない。そこで、釈迦は『一切の生命を慈しめ』として、強引に、生きる価値観を教えている。人間には本来、(他人を、生命を)慈しむ気持ちなどない。本来、心にないことををやれば、責任が生まれる。責任が生まれるが、やってみれば誰にでもできることで、やれば自信もつく。だから生きられる」という。
 
 長老の言葉は、本当に胸に響いてくると思いませんか? ワタシだけかしらw。