映画 「ディア・ドクター」  西川美和監督作

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評価★★★★

 前作「ゆれる」で、兄弟間の表面上の睦まじさの陰にある嫉妬を主題に鋭く人間心理を描いて話題をさらった若干35才(たしか1974年生まれ)の女流監督、西川美和の最新作。今回は、住民の半分以上が高齢者という、田舎というよりも僻地を舞台に、そうした僻地での医療が抱える問題や本当の医者とはどうあるべきかという、かなり難しい問題に切り込んできた。
 
 真っ赤な高級外車に乗った東京のボンボン医大生、相馬(瑛太)が研修医として赴任したのは、信州のど田舎、若者のいない過疎地にある村営医院だった。そこには伊野という陽気なオッサン医師(鶴瓶)がせわしなく働いていた。ひっきりなしに訪れる患者を一人でテキパキ対応する伊野、でも驚いたことに自ら医師免許がないとカミングアウトし、悪びれる風もない。ともかく、日々ひっきりなしに訪れる患者に親身に対応し、どこかで誰かが倒れたと聞けば訪問医療に出向き、時間を裂いては呆けた高齢者の体の様子を伺いに足を伸ばす。夜になれば住民との宴会に赴いて踊って騒ぎ、触れ合いを密にする。愛嬌があって人間味にあふれるから、住民はみんな伊野を信頼し切っている。伊野に免許がないことを知っているだろう看護婦(余貴美子)も、伊野の献身的な仕事振りを認めているせいか、懸命に伊野を支えている。研修医の相馬は、そんな伊野に敬意を覚え、卒業後も伊野の下で働きたいと思うようになる。すべては順調に進んでいた。

しかし、ある年老いた未亡人(八千草薫)が胃ガンで倒れると物語の潮目は急変する。未亡人には東京で働く医者の娘がいたのだが、キャリア志向で休みなく働く娘に胃ガンを伝えれば、娘のキャリアアップに迷惑がかかると案じ、未亡人は伊野にウソの診断を伝えさせる。とはいえ、未亡人の娘に対する愛を尊重すべきか、娘に迷惑がかかっても未亡人に都会の先端治療を受けさせるべきか、迷った伊野はついに姿を消す。

 僻地医療の現状はかくも厳しい状態にある。テレビなんかの深夜の特集なんか観ると絶望すら感じるほどだ。しかも、この映画では医者がいるが、それは村が伊野に何千万円も所得補償しているからでもあり、十分な所得補償をして募集をかけても申し込んで来る医師などあまりいない。俗に言う「無医村」は政府の対策が進んだ今でもなお多く存在する。医者も僻地で働きたいなんて思わないのが現実なのだ。では、医師とはどうあるべきなのか。免許がなくとも立派に医療行為をこなせる伊野は医師とは呼べないのか。私個人は、免許がなくても技術があって患者の信頼があれば医者として認めうる、それは手塚治虫ブラックジャックに慣れ親しんだ日本人なら多くがそう認めるでしょ、と思っている。でも一方で、法律を厳格に運用しなければモラルは低下する現実も理解できる。失踪を捜査しにきた警察は、なんとしても伊野の医療が住民の役に立っていなかったという事実を探し回るが、なかなか出てこない。それでも警察は伊野は医師ではない以上、伊野の行為は立派な詐欺でありし、伊野はその辺の強盗と同様の悪質な犯罪者に仕立てあげようと躍起だ。そうすると、最初は伊野に同情的だった住民たちも、警察の本気さに感化されたためか、だんだん伊野を悪く言うようになる。そのあたりの「お上絶対」的な描き方は日本人らしいし、西川監督はよく分かって描いている。西川監督が描くストーリーって、いつもしっかりと現実を捕らえている。かといってわざと涙を誘うような嫌らしさもない。欺瞞もない。たぶん器が大きい人なのだろうと勝手に買いかぶっているw。

 この映画、僻地医療をテーマに扱っているだけにちょっと政治的な、社会的なメッセージにあふれた映画なんじゃないかと思う人もいるかもしれないが、そんな映画では決してない。メッセージ性はまるでなく、単なるドラマである。最後のシーンなんか、とってもさわやかで心地よい。ちなみに八千草薫って、上品でたおやかで、大好きだ♪。