評論 「日本の難点」  宮台真司著

日本の難点 (幻冬舎新書)日本の難点 (幻冬舎新書)
(2009/04)
宮台 真司

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評価★★★★★

 日本でいまや最も有名な社会学者だろう、宮台真司の最新作。宮台真司といえば、援助交際が世間をにぎわせた95年頃、人をバカにしたような物言いで大勢の知識人をバッタバッタぶった切り、大いに楽しませてくれた。その後も、左・右どちらのイデオロギーにも捕らわれぬ(ってか、どっちにも与する)是々非々の言論を社会に提示し、政治社会のあり方にコミットする社会学者。鋭いとは思うが、偉そうさが鼻持ちならないw。
 
 本書の内容は、日本の様々な問題について、その論点をあぶりだし解決策をズバリ提出したもの。通底するテーマを挙げれば、社会による「包摂」かな。著者本人は、血筋ではなく家筋に基礎を置く日本という国の「国土」が失われていく様を憂いて農政官僚から民族学者となって日本国土の立て直しにコミットしていった柳田国男(私は単に著名な民俗学者としか思っていなかったけど)に自身をなぞらえ、「社会保全、国土保全、そして政治共同体の保全にコミットしていく」と語っている。それはそれで夜郎自大の感がなきにしもあらずだが、各問題の捉え方と提案するソリューションはなるほど説得力を持っている。

 そもそも彼はいま、「日本社会の底が抜けている」と感じているという。その理由は国土(国柄)の荒廃。もとより強力な宗教的統合文化のない日本では戦後、国民の理想を体現していた天皇が力を失い、精神的にも混乱をきたし始めていた。そこで当時のエリートたちにより導入されたのが議院内閣制の名を借りた官僚内閣制で、結果、全国それぞれの地域共同体、農村共同体から輩出された若きエリートたちが、「故郷に錦を飾る」「(顔の見える)田舎のみんなが幸せになるため、国家にコミットする」という日本版ノブレスオブリージュ的気概で国土保全に貢献してきた。しかしその後、移動手段や情報技術の進歩によって流動性が向上すると徐々に変容。1970年代以降の流通革命は、親族や地域を頼る「相互扶助社会」から、相互扶助がなくてもシステムがあれば事足りる「システム社会」に変化させた。さて、システム社会化は全国に均質性をもたらし、それまで故郷が持っていた唯一性、郷土愛を抱くことの出来る個性を失わせていった。例えば、全国どこに行けども、パチンコ屋、街金、ロードサイドショップ、ツーバイフォー住宅だらけだろう、郷土愛を抱けといっても、もとより抱けないほど国土は均質化・荒廃したのだ。

 さらに流動性の向上で相互扶助社会からシステム社会になったことで、なんでもどこでも同じようなものが買え、金があれば何でも調達できるという、代替可能性が増大。それは、男女の恋愛においても同じで、流動性の向上は相手の代替可能性の増大に繋がっていく。それまでの「関係性の履歴」「関係の唯一性」によって培ってきた恋愛が否定され、属性に依存するようになる。相手との積み重ね(関係性の履歴)があるからつき合うのではなく、相手はこれを持っている、こうした特長がある(属性)からつき合うのだ。でも本来、属性への依存は、関係性の履歴よりもはるかに脆弱だ。だって、属性は希少なほど価値があるから、大半の凡庸な人間は代替されやすい。人間心理は常に、「自分じゃなくてもいいんだ」「金の切れ目が縁の切れ目」的な諦観、不安にさらされやすい。自殺だって、普通なら「お前が死んだらオレは悲しい」という言葉で説得できるはずだが、属性への依存だけなら「悲しいなんて嘘つけよ」で終わってしまう。

 結局、日本の社会は、地方も都市も、人間を包み込んで支えてくれる「包摂性」を失ってしまったと著者はいう。もちろん、流通革命は不可避で、今ではグローバル化によって国際的な資本移動が容易になり、日本社会の強みであった雇用すら不安定だ。とはいえ、グローバル化や雇用の流動化がいけないのではない。グローバル競争で日本企業が勝ち残り産業を空洞化させないためには、逆に雇用の流動化・解雇の自由化こそベターで、代わりにセーフティーネットというもう一つのシステムをつくり、もう片方で郷土愛がもてる地域性や人間関係における関係性の大切さを実感させる社会に戻し、結果、個人が仕事を失っても愛する人を失っても「包摂」される社会を取り戻すしかないと、著者は声を大にして訴えている。

 人間関係を構築していく上で、関係性の履歴という要素が薄まり、属性への依存が強まっているとは、ワタシもすんごく同感する。それは6年近く通っているバーでここ1年ほどに強く思うようになったことである。最初、そのバーではワタシくらいの年齢の客層が多かったが、1年くらい前から常連客の平均年齢が大幅に若くなり、25―33才くらいがかなり増えた。まあ、ワタシがオッサンになったわけだけど、そのバーではなされる会話の内容は大きく変化した。軽いんだ。音楽、テレビ、スポーツ、グルメ、ケータイの機種、どれも単に表層をなぞり、上滑りしているだけ。「私はこれが好き」といった、まさに属性の会話。彼らは概して質問してこず、こっちが気をつかって質問すると自分のことだけ答えて終わる。あたかも自分探しをしているように、自分のことしか興味がない。宮台氏は、その象徴としてTVCMが1980年代、ユーミン的なるものからドリカム的なるものになり、物語消費からデータベース消費になり、どんどん関係性の履歴からシーンの羅列へ変わっていったというが、ワタシも同感だ。もちろん、それであっても、彼らは寂しいのだ。包摂される場所を求めてやってくる。ならば、年老いてきたワタシのやることは、彼らとの関係性の履歴を自らつくっていくことなのだろう。

 社会が人をつくり、人が社会をつくる。関係性をつくっていけば、自殺もうつも減る。「お前が死んだらオレは悲しい」「おれはお前のことをいつも思っている」が、相手の心へ通じる、包摂する、包摂させる社会づくりが大切だとは、ワタシも同感だ。そのために著者は、郷土愛が持てるリソースづくりも必要でそれが地方に活気を産むと言うし、荒廃して”No future ” の地方から出てきたワタシにはよく分かる。「分かっているけど、仕方ない」という今の日本の典型的な言い訳が成り立たないような、インセンティブカニズムをつくればいい。そのために彼は社会学者として社会にコミットしていくと語っている。嫌われる性格だと思うが、頑張って欲しい。