映画 「グラン・トリノ」 クリント・ーストウッド監督作

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評価★★★★

 舞台はアメリカ中西部、クリント・イーストウッド演じる主人公ウォルト・コワルスキーはかつて朝鮮戦争に従軍、現在は妻を亡くし一人切りで家事を切り盛りする老人、年老いて現代の退廃的ともいえるリベラル社会にうまく溶け込めない。人種差別発言も平気の平左、彼に言わせれば黒人は「くろんぼ」、アジア人は「黄色い米食い虫」、周囲には独善的なまでの頑迷さと不遜な態度で接し、かなり煙たがられている。一方で心の奥では、朝鮮戦争の最中に殺した敵国の若い兵士たちに対する懺悔がこだまし、今なお「生」と「死」という哲学的問題に解答できずにいる。
 
 あるとき、愛車グラン・トリノを、隣に住むアジア系移民の息子タオが、親戚のチンピラに脅かされて盗みにきた。ウォルトが勘づいて盗みは未遂に終わったが、今度は、その姉のスーが黒人に絡まれているのをウォルトが助けたことをきっかけに、ウォルトと一家との交流が始まる。彼らはモン族という、ラオス周辺に住む少数民族の一家でし、ベトナム戦争を契機にアメリカに移民してきた家族だった。彼らの食や宗教文化はユニークで、人なつっこく、ウォルトはその親しみ深く愉快な民族性に触れ、彼らを受け入れ始めていく。息子、タオは愛車の盗人だが、性格は優しすぎて女々しくもあるため、タオの男っぷりを上げようと、仕事を与え、恋の指南まで行う。タオをつけ回す、親戚のチンピラに対しても力でねじ伏せ、二度と近づかないよう脅してやる。

 しかしながら、チンピラへの介入は、逆にタオ一家への攻撃を悪化させ、タオは銃撃による流れ玉を受け傷を負い、姉スーは暴行を受けてしまう。タオ一家にとり、警察は無力で、もはやチンピラたちを抹殺しない限り安寧はない。陽気だった姉は怯え、タオは復讐に燃え始めた。果たして、どうすれば物事に決着がつくのか。ウォルトのだした決断は、これまで自らが考えてきた「生と死」の問題にも決着をつけるものだった。
 
 かなりいい映画である。人種差別的いい回しが頻発するが、それはそれで大衆に媚びた映画ではないことの証でもあって、逆に映画としての価値を高めている(もちろん、黒人は観ないだろう)。しかも、最後は、泣けてくる。イーストウッドは本作品で俳優を引退すると言っていたので、彼にとっては集大成の映画と言ってもいい。忠臣蔵のような復習物語が好きな日本人、自殺を含めた死の自己決定権を多くの人が肯定している日本人にとっては、かなり受け入れられる映画だろう。特に世のお父さん、おじいさんはこういう映画、大好きだろう。いや、でも、そうした視点でよくよく考えると、ちょっと父権主義(パターナリズム)的で、カッコつけすぎの感もある。
 
 一般に、人は年をとれば、それだけ自分の生きてきた過去に郷愁を抱きやすくなるもので、特に変化(近代化)がモーレツなスピードで進む(米国的・グローバル経済的)現代社会に溶け込むのは容易ではない。たまには、順応することを否定しないと、自分がこれまで築き上げてきた自信や価値観まで喪失する機会さえ出てくるに違いない。それは、ダーティハリーとして古きよき時代を象徴するタフガイを演じ、今では70歳を越えたイーストウッドも同じはずだ。だから彼は以前のインタビューで「世代間のギャップに興味がある」と言い、事実こうした、カッコいい老人役が似合うのだ。そもそも作家とか外に向かって表現力を有する、ある一部の恵まれた環境にある老人を除いて、古い価値観に固陋し現代社会から外れて生活することは単に孤独をつのらせるだけであるため、本来は若者や社会に媚びるのが常道。媚びずない大儀は最後、「死に様」を他人に見せつけることぐらいしかない。なぜならば死人はモノを言わないから、永遠にカッコよくいられる。老いさらばえた姿をいかに美しく糊塗して、威厳を回復してカッコよく見せるか、この映画はそうした安直なオヤジのパターナリズムに陥っているような気もしてきた。最後の「死に様」なんて、哀愁をたたえつつもたくましく、麗しく、まさにイーストウッドらしいというか、彼が求める(年老いた)男の姿そのものなのだろう。

 同じパターナリズムならヘミングウェイの方がずっといい。彼もパターナリズムの象徴的存在だが、もっとペシミスティックで他人への強要がないから、素直である。