新書 「無宗教こそ日本人の宗教である」 島田裕巳

無宗教こそ日本人の宗教である (角川oneテーマ21)無宗教こそ日本人の宗教である (角川oneテーマ21)
(2009/01/10)
島田 裕巳

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評価★★★★

 08年の読売新聞調査によると、日本人の約7割が「自分は信仰を持たない」と答えたという。「信仰を持たない」、言葉を換えれば、「無宗教」である。オウム事件を筆頭とした数々の新興宗教事件が人々の脳裏に負の影響を与えた面があるにせよ、他国に比べて、よっぽど信仰意識が低い。なぜ多くの日本人は無宗教なのか。あるいは、なぜ日本人は自分は無宗教と公言するのか。その原因と歴史的背景をだどり、同時に、無宗教は悪くない、けっして恥ずかしいことではないと、著者が訴えた本。

 なるほど、自分は無宗教と公言している日本人は、外国人から見れば、無宗教とはいえないのだ。成田山新勝寺には年間1300万もの人が訪れ、500万人が巡礼に来るメッカやルルドの倍以上だ。近所でも旅先でも寺や神社を訪ねれば祈りを捧げ、結婚式や葬式では多くの人が宗教を利用する。いやいや、これは宗教的行為ではなくてね、習俗や慣習なんだよ、という人もいるが、多くの外国人からみたら立派な宗教的行為。カトリックでもイスラム教でも、報道されていない真実を直視すれば、日本人が宗教熱心なのは明明白日なんだって。単に日本人は「自分は敬虔ではない」と自虐的になっているだけ。

 なぜだろう。日本ではその昔、神道につながる古代神話とアニミズム的な霊性文化が適度に同居していた社会に、本格的な教義体系を持つ仏教が入り込んで来た。その影響力は多大で、その後、密教浄土教、禅という強烈な仏教諸派の普及とともに独特の信仰スタイルを根付かせていった。しかも、人々の日々の仕事は稲作。稲作に従事する上で、「自分の水田に、村で管理する水を引かないとならない」中にあっては、自己を抑制し集団の利益を優先する、「村社会」が形成。その村社会に、神社は村の利益を守る守り神、寺は村墓地管理としてうまく両立していったわけだ。神仏習合本地垂迹(すいじゃく)などの言葉にあるように、みんな仏教と神道の両方を併せて信仰するようになっていったわけだ。しかも神道っていっても、伊勢神宮的な神様もアニミズム的な神様も、多くの人々の頭の中では一緒。例えば、明治神宮を訪れる多くの人は、明治天皇に祈りを捧げているわけではない。他の神社と同じように「名前のない神一般」に対して祈っている。それはどの神社、豊作を祈る神社だろうが、天神様だろうが一緒(つまり、実質的には日本は多神教の国とはいえない)。その神仏混交スタイルが、明治維新まで変らなかった。だって、他の宗教を選択する機会がないんだもん。産まれたときからそのスタイル。その意味では、宗教ではなく、習俗であり、慣習なのかもね。それが、明治維新以降の欧米型近代化にさらされると、なにか一つの宗教を選択しないとならないみたいな雰囲気になり、迷いが生じてしまった。自分の村にある寺って何宗だっけ? あっ、浄土真宗なの、でもね、浄土真宗の本義は知らないんだけどな。じゃあ、神社っていったって神様はいると思うけど、あそこの神社って御神体は。。。そもそも神道って宗教なの? って感じで迷いが生じ、結果、無宗教を選択するようになっていったというんだ。

 でも、無宗教にもいい面があって、信仰という極めて個人的な問題に踏み込んでいくことがないから利害対立しにくい。無宗教の人々は布教することも、他人と宗教論争することもない。出家制度をもつカトリック信徒や仏教信徒のようにヒエラルヒーと権力を築いて世俗と対立することもない(日本でも昔は、僧兵とか、一向一揆とかあったでしょ)。しかも、今では仏教徒も、多くの僧侶が妻帯するようになって俗化し、逆に寛容になっている。新興宗教すらどんどん寛容になってきている。実際、日本人は移住しても他国に神社や寺を建てたりしないもん。
 

 本書は、これまでの島田作品とは違い、事実や客観的取材・調査の披瀝ばかりではなく、自身の意見をふんだんに披瀝しているのがいい。長らく宗教を研究してきた彼、過去に大きな学問的挫折を経験してきた彼だからこそ、彼の意見を知りたい読者は多いはずだし、そんな読者に本書はちゃんと応えている。文体も丁寧で論理が分かりやすいし、説得力もそれなりにある。でも、最後が気に食わない。「無宗教は世界を救う」と題して、日本人の無宗教の考え方が、宗教戦争で苦しむ世界に光明を与えると自説を展開してんだけど、正直ファンタジックすぎて著者のセンスを疑ってしまう。現実、イスラエルの民が無宗教化する、アメリカ国民の多くが無宗教化するなんて考えられない。他の多くの国においても短期間に一気に無宗教化する可能性など万に一つもないもん。