小説「可笑しな愛」 ミラン・クンデラ

可笑しい愛 (集英社文庫)可笑しい愛 (集英社文庫)
(2003/09)
ミラン クンデラ

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評価★★★★★

  ミラン・クンデラ唯一の短編集。クンデラの作品はどれも素晴らしい。大好きだ。
 
 知性をベースにした皮肉的な言葉や調子、そしてそれら皮肉的な言葉や調子と表裏一体となっているユーモア、諧謔エスプリに富んでいる感じ。だから、多少なりペダンティックで難解なところもあるんだけど、それを無視して読んでいると、後から笑えてくる。

 そして何よりも、クンデラの書く物語に通底している、恋愛への距離感が心地よい。個人的には、共感を覚えるってよりも、大いに得心する、って感じかな。なんて言うか、相手の女性と常に濃密な関係性を結び、心触れ合うほどに深くまで立ち入っているんだけど、自分の中の別の意識、別の脳が、恋愛というものに対して距離を置き、醒めた目で見つめているって感じだろうか。

 もちろん、恋愛の状況を醒めた目で見るなんて、誰でもしてる事かもしれない。でも、クンデラの小説には、数多くの恋愛を経験した人間、同時に、恋愛の只中にあっても常に疑問を呈し、自分なりの答えを導くまで考え続けた人間、いわば仮説と検証のような作業を繰り返すことで自分と相手の深層心理を問い続けてきた人間でなければ感受しえないような表現がたくさん出てくるから驚かされる。彼にしてみれば、恋愛中の二人のどんな会話にも、どんなシーンにも、必ず恋愛上のパターンが現われている、ってことなんだろうね。簡単に言うと、クンデラは恋のベテランなのだよ。だから、恋愛を重ねてきた者にとりクンデラの表現はどれもドキっとするほど核心をついた言葉となって、読者の心の奥にビンビン響いてくる。
  
 さて、この短編集の中で、私にとって最も衝撃的だったのは、2作目、ナンパ師を友人にもった男の悲哀の物語、「永遠の欲望という黄金のりんご」かな。私の周囲にも一人、ナンパをするために生まれてきたんじゃないかというほどの才能をもつナンパ師が一人いたので、実に説得力があった。
 その私の友人のナンパ師は、この物語のナンパ師と同じなんだ。私のような小者は、たいてい周囲への恥ずかしさや照れくささを理由に(たいていは自分が傷つきたくないから)逡巡し、踏み込みが遅くなってしまう。私が衆人環視の状況で逡巡から脱しナンパに踏み切るには、「ここでナンパするのは一つの人生勉強なんだ」「他の人間がやりたくてもできないことをやれば経験値が上がる」というセルフコントロールを(儀式的に)行うことが必要だw。クンデラに言わせれば、そういう私は「ディレッタント」(好事家)になるらしい。それに対し、彼らには迷いがない。少しばかりの逡巡もなく、ごく「自然に」ナンパしている。いつも軽やかだ。あまりに軽やかで爽やかにやるから、「絶対性」すら感じちゃうw。
 一方で、正直言うと、彼らと一緒にいると否が応にも原始的な意味での「男性性」の違いに愕然とさせられるため、時にひどく苦痛も憶える。でも、失いたくはないんだな、これが。なぜなら、彼と時折一緒に行動することで私は、「自分の分別ある生活の中に無分別な活動のための小さな囲い地を確保している」(クンデラ)からなんだ。ええ、その通りですよw。
 
 こんな作家の作品を翻訳する訳者の苦労たるや如何ばかりかとも思うが、訳者の西永良成、とっても素晴らしい。語彙を含めた表現力も、深い教養をベースにしつつもユーモアを忘れない文体も、なにもかも申し分ない。