社会科学「金枝篇」 ジェームズ・フレイザー  2(2008.5.20読了)

初版 金枝篇〈上〉 (ちくま学芸文庫)初版 金枝篇〈上〉 (ちくま学芸文庫)
(2003/01)
ジェイムズ・ジョージ フレイザー

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評価★★★★

 1890年に刊行された初版2巻本。比較宗教学研究の大学教授が書いた論文。一般普及を目的に実例を多く削除した岩波文庫の簡約版ではなく、ちくま文庫の本書を選んだ。なぜ初版かといえば、第2版はなんと全13巻だから読めるはずもない。論文といっても実に読みやすい。最初に問い(なぞ)を2つ立てて、最後に結論を提示する。結論に至るまでの長い間は、謎解きのために必要な膨大な実例の列挙。まるで著者は、迷宮入りした大事件に挑み、これでもかこれでもかと証拠を出してくる検察官のようで、論文というより壮大な推理小説を読んでいるかのような気持ちになる。
 
 論文で、著者はまず、ターナーの「金枝」という絵画から古代イタリアのアリキアという地域の森の風景に思いを馳せる。そこは聖なる森の木立の下。ただ、情景はおどろおどろしい。一人の男が抜き身の刀を手に、いつ殺されるかわからぬ様子で用心深く見張っているのだ。彼は祭司であり殺人者だ。彼を殺して代わりに祭司職を得ようとする者を探しており、そいつを殺そうとしているのだ。祭司になりたい者は、現在の祭司を殺すことで職を継承できるからだ。そんなことが日常茶飯事で起きていたらしい。そこから著者は、ローマ建国の物語に出てくる「金枝」という種類の樹木の話に繋げ、祭司殺人の際には同時に金枝も折り取られないとならなかったことを伝える。そこで著者は二つの疑問を抱く。?なぜ祭司は前任者を殺さねばならないのか。そして、?なぜ殺す前に「黄金の枝」を切り取らなければならなかったのか。
 
  そこからあとはその答えを導き出すための膨大な実例と類推の旅がスタートする。
 
 まず、祭司や王とはどんな理由から発生し、どんな役割を担っていたのか。もともと蛮人(言葉は悪いがそう書いてある)は、人間はみな自ら自然を都合のいいように変える力を持ち、自然界に超自然的な方法で影響を与えることができると考えていたという。その方法の一つが、みずから望む自然現象をまねること。雨が欲しいなら雨乞いするんだけど、それは、雨が降っているシーンを演出する。その際、呪術を行う呪術者というか祭司が必要で、本来はそれは誰でもよかったんだ。ただ、選ばれたものは、演出するためにしなければならない必要なことがたくさんあって煩わしい。そのわずらわしさから、祭司を拒否するものも多く、西アフリカでは会議で決めた後継者を監禁し、納得させたらしい。そのうち、その呪術の力が広く認知されれば、人間の姿をした神、人間神、あるいは政治的権力を有した王になる場合もある。当時、神はまだ弱く、人間の意志に従うよう強要される存在だったわけだ。

 生物に魂が宿るという考えは、もともと蛮人の間で、一匹の動物が生きているのはそれを動かす小さな生物が内部に入ると考えていたためらしい。だから、もし祭司、あるいは人間神が衰えてきたら、そいつを殺せばいい、なぜなら、その魂がもっと強壮な後継者に移しかえられれば問題ないからという考えに発展した。その場合、老齢や病で死ぬより、非業の死の方が都合がいい。当時、それほど王や祭司の魂はこれほどもろく危険にサラされていたんだ。そうした危機への備えがタブーとなる。何々を食ってはいけないとかのタブーは、危機の予防であった。

 あるいは、浄化という儀式。例えば、偽の王(または祭司)をつくり、その王を殺すことで、その社会は不運から浄化される。神が樹木や植物(特に穀物が代表例)に宿るなら、衰えていく植物(穀物)を刈り取る儀式を行えば、浄化になる。アーリア系地域の各地に残る「謝肉祭」「死神の追放」という儀式も、浄化の一つであった。

 そうなると聖餐という考え方も出てくる。穀物の霊の表象とされる人間や動物、植物を食べることが聖餐であり、それら神の魂が一部なり入った体を食べることで神と同じ力を得られると考えた。生贄も同じで、なにか大事なもの(人間や動物、例えばヤギ)を神に与えれば(殺してしまえば)、浄化される。

 そこで、著者は、デメテルとプロセルピナの神話(ペルセポネが冥界ハデスに連れ去られ、再び戻ってくる話)に想像を広げ、それがシリアのアフロディテアドニスの神話やエジプトのイシスとオシリスの神話とまったく同じものだと提示。いずれも穀物霊が人間の姿に変えた植物一般の神であり、それが母から娘、つまり、弱くなった大地と作物が再び肥沃な状態へと生まれ変わることを願う原始的な儀式から生まれた神話だと推定。神話は儀式から産まれるとね。
 
 でも、タブーをつくって浄化を重ねてもうまくいかないことがある。その際は祭司や人間神を殺さなければならない。結局、冒頭の古代アリキアの森の王が殺されるべきであったのは、彼が森の霊、植物霊の具現として、老齢や病で死ぬ前の男盛りの間に殺されるべきだったのだと結論づけた。そして、アーリア系民族の間では一般に、オークはすべての木の中で最も神聖であったことに注目。冬になるとオークがその葉を落としてもその上のヤドリギ(金枝)は、オークの上で緑に生い茂っている。つまり、オークの生命、魂はヤドリギに託されている。だから、冒頭の森の王が殺される際には、ヤドリギ、つまり金枝を折り取る必要が合ったのだ。

長かった。。。

 最初は、すごくワクワクしながら読んでいった。ちょっと推論が強引過ぎる、想像じゃないと思うところも多々あるが、あの時代の論文というものは概してそんなもんだろうと納得しつつ、また結局これは欧米人のための本なのねと思いつつもそれはそれで面白いねと考えつつ、どんどん読み進められた。
 ただ、下巻を読み終わり、「あとがき」読んだら、最悪だった。訳者が本書またはフレイザーを冷静に批判しているんだけど、読めば誰もこの本を読もうと思わなくなるのではないか。あとがきから本を読む人もたくさんいるのに。。。彼が言うには、読者も後半に気付くだろうけど、本書は単なる「先史アーリア人の原始宗教の探究本」だと。また、著者のフレイザ−は進歩主義者で、いかなる宗教も野蛮から進化した迷信に過ぎない、キリスト教もやがて科学に取って代わると思っていたという。現代の西洋人はいまだ古代の蛮族の頃と類似した迷信に囚われているが、現代もなお存在する(アフリカ等の)未開人たちと比べればマシで、生きた化石である彼らの行動を眺めれば克服できるとたびたび漏らしていたという。彼ら未開人の歴史が、欧米の歴史に比べて短いという証拠すらないのにだ。
 推論を裏付けるために列挙した大量の実例も、地理や歴史的区別もなく縦横無尽。彼にとっては「精神発達過程上の類似」が大事なのであって、地理・歴史は関係ない。うーむ、やっぱり「肘掛椅子の人類学」なのだろうか。でも、上記の推論はみんなその通りじゃね〜のと思うし、推理小説読むようにワクワクしながら読ませてくれた。論理の方法論が間違いで、人となりに難点があるかもしれないけど、楽しませてくれたのだから十分にありがたく思う。