小説「黒い時計の旅」 スティーブ・エリクソン (2008.2.11)

黒い時計の旅 (白水uブックス)黒い時計の旅 (白水uブックス)
(2005/08)
ティーエリクソン

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評価★★★★

 第二次世界大戦でドイツが負けず世界を支配し、ヒトラーがまだ生きていたらという幻の世界と、現実の20世紀が複雑に交錯する大作。断定的ではなく問いかけてくるようで知性がにじむ文体(翻訳した柴田元幸の表現がすごくマッチしている)、活躍する舞台がどんどん広がっていく壮大な風景の下、現実世界と精神世界が行き来するから、つかめそうでつかめない。著者の想像力がどこまでも果てしなく大きいことを否が上にも感じる。とにかく、解説が難しいw。
 
 とある小島で、本土と往来する連絡船の船着き場で働く若い男の話からスタートする。でも、その男がいったいどういう人物か明示されず、すべてがぼんやりして、ここが小説内で何の役割を担うかのヒントもない。あるのは、一言一句が何かを暗示するような不思議な皮膚感覚。「なんだか分からないが、神秘的で惹きこまれる」感じかな、手応えのなさに不安を覚えつつも、書かれた文字や文章が物語の底部に流れる難解なテーマ性につながるアリアドネの糸のようで、その糸を手繰り寄せたくなる。読み手に与えるその感覚は、ガルシア・マルケスパウロ・コエーリョのようと言えば分かりやすいだろうか。

 そう思っていたら、いつのまにか主人公が変わって、ある暴力的な米国人が語りべとなっていた。実母が実母だと知らずにレイプし、父と兄弟を殺して家を出る。辿りついた都会では新聞・雑誌の売り子、バーの用心棒として働き、生計を立てていく。小説を書き始めると、一部のドイツ人読者層に支持され、ついに総統、つまりヒトラーの私設ポルノグラファー(要はエロ小説家)として契約することになる。その成りあがりの様にかかる筆致は、スピードにあふれ、サスペンス小説のようにスリリングで、ハードボイルド小説のように情感がこもっている。

 ただ、このあたりから主人公は、デジャヴやノスタルジーにとらわれるシーンが多くなり、暴力的なシーンが扉を開く鍵となって、もう一つの現実世界とシンクロするようになる。その世界の主人公(語りべ)は、もう一人の主人公とは対比的に、マリア様のようにすべてを受け入れる女性。天の配剤はすべて不運なものだが、決して不幸なものにならない。とはいえ、物語は並行した2つの世界を何度も行き来するので、そのプロット(筋)と自分の立ち位置が分からなくなる。物語の方から勝手に離れていって、自分は迷路でさまよっている感じ。村上春樹の「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」のようにね。
 
 最後、冒頭の少年が何者でどんなメタファーを担っていたのかが分かり、つかみどころがなかったはずの物語が少しだけつかめたような安心感を得て、読み終わることができた。でも、完全につかめたわけではない。いや、何もつかめていないのかも知れない。その一貫した不完全燃焼さが、この物語の大いなる魅力となっているんだろうな。本書を紹介してくれた友人に感謝したい。