エッセイ「走ることについて語るときに僕の語ること」  村上春樹  (2007.11.7)

走ることについて語るときに僕の語ること走ることについて語るときに僕の語ること
(2007/10/12)
村上 春樹

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評価★★★
 物語ではない。タイトル通り、著者が『走ること』をテーマに様々なことを書きつづったエッセイ。何がきっかけで何の目的をもって走り始め、なぜ続いているのか、走っている間に何を考え、走り終わった後に何を思うのか、そうしたことを正直・誠実に吐露した本。そのあたりに興味のない人には、さっぱり面白くないのではないだろうか。
 
 村上春樹は1978年にデビューした後、1982年から走り始め、ほぼ毎日走り、毎年一度はフルマラソンに出場している。今では毎日10km、週60km走っており、そのほか、たまにトライアスロンもやっている。

 なんで、そんなハードなことが続けられるか。彼が言うには、彼自身、性格的に「理論や理屈を組みたてて生きるような」頭脳派ではなく、「身体に負荷をかけ筋肉にうめき声を上げさせ、ようやく腑に落ちる」肉体派。同時に、勝ち負けにこだわりがなく、それよりも自分の中の目標設定のクリアに関心があり、そういう意味で長距離走に向いていたらしい。
 
 それにしても、である。私にとって小説家ってね、色川武大とか中島らもを例に挙げるべくもなく、本質が快楽思考で不健康、退廃的で社会に順応できない、社会の澱みみたいな連中で、ランニングやマラソンといった、爽やかなスポーツに没頭すれば、嫉妬や憎悪、情欲などのドロドロした『悪』の感情が中和され、読むものを共感させる面白い小説なんて書けなくなるんじゃないかなあ、って思っている(正確には「思っていた」)。でもね、それは違うみたい。

 簡略) 「小説を含めた芸術活動においては、人間存在の根本にあるような毒素のようなものが否応なく抽出され表に出てきてしまう。毒素の介在しない小説なんてない。そもそも芸術活動は、その成り立ちから不健康で反社会的要素を内包している。だから、作家の中には実生活レベルから退廃的になる人が多いし、逆に、反社会的衣裳をまとう人も少なくない。そうした生き方を私は否定しないが、とにかく、小説を書いていくのはとても不健康な作業である。私の場合は、小説という真に不健康なものを扱うには、できるだけ健康でなくてはならないと思っている」。

 村上春樹は、自身の才能を、泉から水が湧き出るようなものではないと自覚している。のみを手にこつこつ岩盤を割り、穴を深くうがっていかないと水源に辿りつかないとまで言う。水源に近づくためには身体を整え酷使することが必要で、だから走るんだと。う〜む。それは、私のように芸術的才能のない人間が、自分が端にも棒にもかからない存在だと分かりつつも文章を書き、それで生活していると、酷使(刺激)の必要性を実によく理解できる。実際、私が今まで、このmixiの日記で何度か触れた事がまさにそうで、例えば、オートバイを疾走させて得るランニングハイの高揚感がそうだし、酒