映画 「ペルシャ猫を誰も知らない」 バフマン・ゴバディ監督

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評価★★★★★


監督は、「亀は空を飛ぶ」を撮ったイラン人の、といってもイランの中で人口比で7%しかいないとされるクルド人バフマン・ゴバディ。同監督の映画を観たのはわたくし今回が初めてだが、こんなにも愉快な監督がイランにいるとは思ってもみなかった。なにせ、イラン人の監督といえば、最近ではアッバス・キアロスタミ、「桜桃の味」でしょ。キアロスタミというと自身が小津安二郎の大ファンだけに、小津安二郎がごとくアンニュイな映像を撮る。だからイランの自然の美しさをフィルムワークに穏やかに落とし込むことはできても、正直スピード感がなくて眠くなる、みたいな感じの映画ばかりなので、どうもイラン映画というとキアロスタミ的なイメージを持っていた。でも今回の映画、正直おどろいた。首都テヘランを舞台にした音楽に熱心な若者の青春物語なのだ。背景となる都市、テヘランはとっても発展していて、町並みは先進国の主要都市とそう変わらない。若者も先進国の若者と同じで、酒が飲めない、女性を触れないなどといった厳しいイスラム法の戒律の中をくぐりぬけながら、できる限りの自由を追求し、それなりに謳歌している。隠された場所さえ知っていることと摘発のリスクを承知していれば、東京にあるようなクラブもあり、酒だって簡単に飲むこともできる。
 
 さて、ストーリーは単純だ。音楽的才能のある主人公のアシュカンと、そのガールフレンドのネガルは、テヘランでインディーズバンドを組んでいる。だが、ポップ音楽やコンサート演奏に規制のあるイランでは、自分たちが勝手に演奏することはできても、多くの観客を集めて演奏するには政府の許可が必要で、伝統音楽でもない限り許可されることはない。そこで二人は国外で演奏することを思いつく。かといって、バンドメンバーを探さないとならないし、メンバー全員がパスポートとビザを得る必要もある。規制の中で思いを達成するのは容易ではない。そこで、二人は知人を介し、有能なプロデュース力をもつ不思議な男、ナデルを紹介してもらう。果たして、アシュカンとネガルは無事に国外でライブを開けるのか。
 
 これがメインプロットだが、映画には通常、必須とされるサブプロットが、この映画にはない。サブプロットとなりうるであろう、アシュカンとネガルの恋の行方や心理的葛藤といったメインプロットとは別のストーリーがまったくない。しかも、主人公アシュカンのキャラクター造型が弱く、魅力的な男性に感じない。どっちかいうと、彼のために逮捕までされてもなお、彼のために奮闘するナデルの方がはるかに魅力的だ。彼は高速道路の広い道からL字上になった街の小道までオートバイを巧みに操り、寝場所もいとわない。アメリカのハリウッド映画が大好きで家にはDVDでいっぱいだ。逮捕されても言葉巧みに行政官をたらしこむことができる戦略家で、かつ、喉をはらして野太い声で伝統音楽をシャウトするミュージシャンでもある。いっそのこと主人公はナデル、って勝手に決めたいくらいだ。でも、この映画は、のんびりしたインディーズミュージシャンの主人公アシュカンと活動的なバイプレーヤーのナデル、そして二人の周囲でキーキー騒がしいネガルのバランスの取れた関係性が強固でブレない。あくまで国外ライブを成功させたいというストーリーの軸がしっかりとしていて、途中で眠くなるようなことは決してない。いわばサブプロットは音楽なのだろう。つまり本作品は、伝統音楽からロック、ヘビメタまで、イランの生のミュージックシーンを紹介する映画でもあるのだ。規制のためにデカい音を出せる場所がなく、仕方ないから牛小屋でバンドの練習しているヘビメタ野郎たちの音楽を聴いたとき、わたしの心は一気にざわめいた。マンションの屋上の秘密の小屋でひそひそと練習にいそしむストーンローゼズばりのロックバンドは、まるでロンドンかニューヨークの若者群像に見えてくる。しかも彼らは、アフマディネジャド大統領がたびたび挑発するアメリカのリッケンバッカーのエレキを奏で、歌詞だってみんな英語で歌うのだ。さらには、ナデルがなぜか誰もいない早朝の草原にアシュカンらを連れ出し、自ら伝統音楽を奏でつつ、これまた不思議な踊りの集団による伝統的なパフォーマンスも見せてくれたのには可笑しくて声をもらしてしまったし、高層ビルの工事現場でラップの練習をしている、まるでヤクザのような風体のラッパーが歌う反体制的な音楽は身もだえするほどかっちょよかった。そう、イランの音楽シーンはとっても「豊か」なのだ。それらを観て聴いていると、なんとイランの若者ってわれわれと何にも変わらないし、逆に鷹揚で屈託なく、カッコいいぜって思うし、そうしたイラン、テヘランの実情を披露することにこそ、監督の意図があるのだろう。
  
ただ、そんな、「あーイランっていいな、旅したいな」で終わりにするようなナイーブな監督ではない。最後は、日本映画のようなインナーコンフリクト(内的葛藤)にはとどまらない、ソーシャルコンフリクト(社会的葛藤)、すなわち最後はやはりイラン国家の体制批判でガツンと結んでくれる。監督は、この映画をイラン当局の許可をえずにゲリラ的に撮ったらしい。そのため、彼はもうイランには帰れない。でも、その覚悟が功を奏し、イランという国、そしてイラン人への見方がかわるような、すばらしい映画になっている。

 ※ イラン・イスラム共和国
1979年のホメイニ師によるイラン・イスラム革命により、宗教上の最高指導者が国の最高権力を持つイスラム共和制を樹立、憲法の規定による立憲イスラーム共和制である。シーア派を国教とし、女性に対してはヒジャーブが強制されており、行動や性行為・恋愛などの自由も著しく制限されている。酒や女性に触ることは厳禁で、鞭打ちの刑などに処される。